岩倉使節団米欧回覧150年に思うこと
 私は学生の時、岡倉天心の「茶の本」、「東洋の理想」を読んだことがきっかけで五島美術館で開催された「横山大観展」での美術評論家の河北倫明氏の講演を聴きました。この講演で触れられた横山大観の絵に表現されている東洋と西洋の対比も興味を惹かれましたが、とりわけ「鎌倉期に中国から日本に紹介された「墨絵」が100年をかけて江戸期の「大和絵」に変貌した」という指摘に現在でも大きな関心を持っています。これは日本文化の根底に触れる指摘なのです。

 一般的にいえば日本は外国から入ってきたものをそのまま使うことはありません。かならず手を代え品を変え改良を加え出します。

そういうことは学問や思想でも同じなのです。日本の置かれた地理的な状況が作用していると思われます。

小林秀雄も講演(CD)で「日本は何時も学問が外から押し寄せてきてそれと闘わなければならない国なのです」と指摘しています。

 全てとはいわないまでも日本の文化の「種」は外からいれますか永い時間をかけて手を代え品を変えて全く別のものにしてしまうのです。全く別のものを作り上げてしまうのです。

この文化の受容過程では様々な軋轢をもたらします。。

 芸術の分野などではその変化がすぐに目に見える形で影響を及ぼすということはないかもしれません。

 明治維新期にもたらされた「文明の利器」等は単純に便利だから使うということでは済まないのです。必ず使う人間の側に影響を及ぼします。それは単純なものではありません。明治期に「和魂洋才」といっても「洋才」が「和魂」に次第に影響を与えてゆくのです。

 思想の分野などとなると大変なものです。
平安時代の知識人達は「書き言葉」は漢文、話し言葉は「大和言葉」という分裂状態で悩みに悩んだと想像します。考えることがうまく表現できないのです。江戸期の本居宣長、賀茂真淵等の学者は日本的な自前の思想を生みだそうとして苦闘したのです。ただこうし苦闘は明治期にも大正期にも昭和前期にも続きます。哲学に見る如く大正期から昭和前期にはそうした咀嚼が不十分な段階で難問にぶつかってしまったのだと思います。おまけに日本の場合はその結果が世界に通じるという普遍性を持ち得ないいびつなものになりがちだというという問題点はあると思います。

政治や経済の分野となると話はもっと複雑になります。受け入れる土壌が、どんな状態であるかが問題です。一つの政治制度には様様な背景があります。複雑な利害関係があります。経済システムについてはこれを受け入れて行く十分な精神的基盤がありました。

 徳川幕府の内なる側からの改革は容易ではありませんでした。できなかったのです。「幕末史」(半藤一利)を聴いていて痛切に思いました。勝海舟はこの幕府では見込みがないと早い段階で大阪で会った西郷に話しています。徳川慶喜も優柔不断で態度が定まりません。松平春嶽はこういう慶喜公を評して「百才あっても胆力一つなければただの猿芝居」と突き放しています。

 イギリスはド-バ-を隔てたお隣のフランス革命を横目に見ながら自律的に変革を遂げてゆきましたが、徳川幕府は内部から崩壊してゆきました。ここに今日でも日本が抱える深い根源的な問題を見る思いがします。

維新政府は「あらゆる分野の新しい種」を導入すべく欧米に岩倉使節団を派遣します。アングロ・サクソン(アメリカ・イギリス)、フランス、ドイツと同じ米欧とはいっても文化が違い、発展段階でも異なる国に出かけたのです。

 岩倉使節団が伴った第1期の留学生達は大半がアメリカ・イギリスというアングロ・サクソンの国の文化の中で教育を受けます。しかし、政治形態や軍事は発展段階が身近なドイツに傾斜してゆきます。そして次第に政治、軍事にとどまらず文化や教育の分野までドイツの文化をとりいれだします。ゲ-テやマックス・ウ-バ-が一番憂慮していたドイツの後進性、教条主義とか観念論とか事大主義とが大正期から昭和前期の日本に定着してしまったのです。本来の日本社会になじまないものなのですが、どうしても過渡期の受容という側面がありました。長谷川如是閑は徹底してこういう日本を歎いていました。

 このことが戦前日本の運命を決めたのだと思うのです。イギリスの経験主義、アメリカのプラグマチズムという思想基盤が日本に根付かなかったのです。イギリス流の「歩きながら考える」ということがどんなに大事なことかを改めて知る必要があります。

 以上が私の雑多な読書から得た日本文化についての平面的な俯瞰となります。こうした平面的な俯瞰に垂直的な裏付けを加えられれればよいのですが、なかなか難しそうです。このことに関連して「閑話休題」に載せてある「講演を聴く」、「哲学のこと」をお読み下さい。(2018/10/17記未完)

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週刊東洋経済誌(2018/10/20号)の書評欄が目に留まりました。

「日本型資本主義 その精神の源」(寺西重朗)評者 河野龍太郎

16世紀の宗教改革で生まれたプロテスタントの禁欲的な職業精神が近代工業社会の淵源にある、というのがドイツの社会学者マックス・ウエ-バ-の主張だ。

その西欧型資本主義の制度を移植したのが、日本の資本主義の始まりというのが通説だが、それは物語の半分に過ぎないという。

もの作りへの強いこだわりや技能形成を重視する労働市場、関係性重視の金融システムなど日本経済の源流を、鎌倉時代の仏教革新に求める。

江戸時代は、消費財の大量生産を可能とする工場制機械生産以前の家内制手工業だったが、比較的高めの成長が続いた。

海上輸送を中心とした交通手段の発達はその一因だ。

ただそれだけでは持続的で成長はは得られない。市場経済の発展に適合的な正直、勤勉、倹約といった道徳規律が生まれ、信頼熟成や協働の高度化など社会資本が蓄積したからこそ、取引コストが低下し成長がもたらされた。

その根底には、鎌倉時代に生まれた新仏教を源流とする。求道的職業行動に基づく精神が存在していた。
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 「市場経済の発展に適合的な正直、勤勉、倹約といった道徳規律が生まれ、信頼熟成や協働の高度化など社会資本が蓄積」とあるが、私が学生の時、土曜講座で聴講した法政大学の重友毅教授は井原西鶴の文学の本質は好色物にあらず倹約力行を通して健全なる町人倫理を説いたと話された。私はこのときマックス・ウエ-バ-を思い浮かべ、日本の精神的基盤に共通するものがあると思った。

 また、キリスト教(プロテスタント)は日本の武士階級の倫理観となんら異なるところはなく、内村鑑三、新戸部稲造達が札幌農学校入学し、クリスチャンになったことなどは何の不思議もありません。
 内村鑑三が高崎藩の祐筆であった父親に上海から輸入した白文のマタイ福音書を渡したところ、一読してキリスト教のなんたるかを理解したというのですが倫理観や生活信条に何らの違和感もなかったことがわかります。

 かかる精神的な基盤があればこそ明治期に導入された西欧型の資本主義は大きな混乱もなく日本の社会で機能し始めたと考えられるのです。
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