吉野信次学長と我が家のパーソナルヒストリー
 私は昭和36年4月に大学に入りましたが、入学式での吉野学長の式辞には吃驚しました。ベーコンの学問掄を引用して「学問はオーナメントである」と述べた下りです。式辞の前後はあまり記憶にないのですがこの下りだけはよく覚えています。

 ところで私の母方の祖父母は宮城県古川の出身です。祖母(菊池キヨ)は一人娘で石巻から祖父(菊池富三郎)が婿養子で来たのです。祖父は日露戦争に出征し、戦後、古川に戻ると、間もなく親戚すべての反対を押しきて酒屋をたたみ満州営口に移り、この地で石灰の工場を経営しました。伯父や伯母をはじめ私の母もこの地で生まれました。母は奉天で結婚をし私が生まれました。祖父は私が生まれる前に亡くなりましたので祖父のことは石巻の佐々木の三男だということだけで詳しくは知りません。ただ母たちの話では婿養子などは男の沽券にかかわると考えていたような人だったようです。

 大学に入ったことを当時上池台に住んでいた祖母に話したところとても喜んでくれました。驚いたことは吉野学長のことを信次さん、信次さんといいうのです。吉野信次さんは私の従兄弟だと言うのです。祖母の家は古川の酒屋で吉野さんの家は綿屋(?)だったそうです。母や伯母に確かめたところ間違いないのです。母や伯母たちの話では吉野信次が商工大臣(昭和12年第一次近衛内閣)になったときは親戚から大臣が出たと言って大騒ぎであったというのです。私は大臣よりも大正デモクラシ-で民本主義を唱えた吉野作造が祖母の従兄弟と知ったことのほうが驚きでした。

 入学後早々、江古田の寿司屋でゼミのコンパがありました。藤塚先生の隣に座っていたので先生に学長の式辞でこれから学問を始める学生に「学問はオーナメント」などというのですから驚いたと話をしました。先生はそういう話ならばいいのです、とおっしゃられ、吉野学長は武蔵にはふさわしくない方ですと語気を強められました。その時、先生の気迫に押されて祖母が従兄弟ですと言いそびれてしまいました。先生の話ではなんでも前年の入学式か卒業式の式辞で三井三池の労働争議に言及して激烈な話をしたそうです。たしかに34年から35年にかけて総資本対総労働という三井三池大争議がありました。

 吉野学長は土曜講座で何回か、商工省の役人として第一次大戦後の産業振興にたずさわった体験を話されました。最前列で受講しましたが、母から余計なことを話して迷惑をかけてはいけないと言い渡されていましたので「私の祖母菊池キヨをご存知でしょうか」とお聞きしたかのですがやめました。ただ顔だちが祖母によく似ているのです。根津講堂にかけられている肖像画はちょっと違うような印象を受けます。

 7/2の同窓会の総会後の懇親会で5回卒の山川先輩から聞いた話では在学時授業料の値上げ反対運動があり、教授会も学生側に好意的であったというのです。当時の学長は哲学者の宮本和吉先生(安倍能成の義弟)で、この反対運動が理事会の耳に入り、教授会が反対運動をあおるとは何事かとなったそうです。そんなことから吉野作造の弟で運輸大臣(参院議員、第三次鳩山内閣)を歴任した吉野信次が大学学長、高中校長に招聘されたとのことでした。
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