哲学を考える
 このところ大倉尾根を音楽や朗読を聞きながら登るのが気に入っている。歎異抄など本で読むより朗読を聞くほうが心に響く。これは意外だった。岩波文庫本も注釈付で何度か読んだが、字句にとらわれて間延びしてしまう。暁烏敏の歎異抄講話も読んだ。でも朗読を聴くほうが新鮮で分かりやすい。ただ何度も何度も聞いていると間を空けたくなる。

 そんな折、渋谷の書店で筒井康隆氏の講演「誰にでもわかるハイデガ−」(新潮社カセットブック)を見た。齋藤先生の哲学の講義を思い出してこれを聞いてみたいと思った。そんなことで大倉尾根で聞いたが、こんな安直な方法でハイデガ−の「存在と時間」が理解できるなどと言うことは到底無理だと思うが、ただ正直なところこういう本を読みたいとはとても思えなかった。加齢現象というやつで知的好奇心の分野がどんどん狭まるのは避けがたいことかもしれない。ただ哲学については二、三の思いがあるので書いてみた。
 
 大学1年のとき斎藤信治先生の哲学の講義を聴いた。40年以上も昔のことで断片的なことしか思い出せないが一つだけ鮮明に思い出せることがある。イデアということを話されて「カントはヒュ−ムによって独断のまどろみを破られていわゆるコペルニスク的転回(コパ−ニシュベンドング)を遂げたのであります。」と、舞台の上の役者のように声を潜めて話された。私は酔ったような心持で聴いていた。そんなことで永くこの一節を覚えているのだ。先生は私が教わった頃はすでにキエルケゴ−ル「死に至る病」、ショウペンハウエル「自殺について」を翻訳されていて、岩波文庫に収録されていた。こういう碩学から教わっても哲学に触れたのはこれっきりで哲学書を読む機会はなかった。正直なところ機会がないというより積極的に読もうという気持ちがなかった。
 
 大学の1,2年次はマックス・ウエ−バ−の著作やこれらに関する青山秀夫、出口勇蔵等の著作を読んでドイツ社会とアングロサクソン社会の精神的基盤の相違を学んだ。こういう関心はどんどん拡がった。笠信太郎の「ものの見方考え方」、長谷川如是閑の「日本的性格」を読むにつれてドイツと日本の問題とか、本来の日本がドイツとは全く異質なものであることを知った。ただ戦前、大正から昭和の日本ではドイツの精神的文化的影響の大きさは大変なものであったと思う。こういうドイツ文化の影響下でドイツの学問、とりわけ哲学はカントだ、ヘ−ゲルだ、ニ−チエだ、マルクスだ、と日本の知識人や学生に熱病のように受け入れられたのであろう。

 私ごときが言うもおこがましいがドイツの社会科学は議論のための議論という印象が先立ってどうも近寄りがたかった。マックス・ウエ−バ−が取り組んだのはこういうドイツ社会の精神的基盤ではなかったかと思う。第一次世界大戦後の大恐慌時に社会民主党大会でゲルハルト・コルムがイギリスでケインズが公共投資ということを言っていると財政支出の提案をしたとき金融資本論を書いたヒルファ−デングがマルクスの資本論にはそういう理論はないといって反対をしたそうだ。その後、ゲルハルト・コルムはナチスの台頭とともにアメリカに亡命をしたのだが、理論だとか論理の展開の精緻さとかばかりが先立って実証性とか有用性に欠けては何の為の社会科学かと思う。かのゲ−テも絶えずイギリスのことを気にかけていたことをエッカ−マンの「ゲ−テとの対話」で読んだことがある。ゲ−テは観念論や事大主義的教条主義的なドイツ社会の精神的基盤を危惧していたのだ。日本でも長谷川如是閑は大正期の日本がドイツの学問に傾倒したことが日本の進路を間違えさせたといって厳しく批判された。私如きが言うもおこがましいが哲学が不要とは思われない。斎藤先生の講義で教わったことだが、Philosopyという言葉は「知を愛する」という意味があり、明治の先人は、最初、希哲学という言葉を当てたが最終的に哲学という用語に落ち着いたという。哲学に罪があるわけではないと思うが、形而上学の充分にこなれていない難解な用語を使って議論をすればどうしても空理空論となのではなかろうか。アングロサクソン流のコモンセンスに裏打ちされた学問をした長谷川如是閑などはどうにも我慢ならなかったようだ。とにかく心しなければならないのは充分に理解できていない用語を使って現実から離れた空理空論をしてはならないことだと思う。

 限られた世界で衒学的な用語を使って議論している限りは他愛もないこと笑って済まされようが、政治家の漠然とした充分に理解できていない言葉を使っての演説を聞く時などは決して安易に鵜呑みにしないことだと思う。ドイツのヒトッラ−の第三帝国に刺激されて、日本でも「大東亜の新秩序の建設」等のスロ−ガンのもとに戦争への道を突き進んだ。目の前にある地道な改革に取り組むことなく起死回生の妙策とばかりに口当たりの良い、しかも、内容がはっきりとしないスロ−ガンに追従することぐらい危険なことはない。昭和15年の帝国議会で斎藤隆夫が「徒に聖戦の美名にかくれて、国民的犠牲を閑却し、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくの如き雲を掴むような文字を並べ・・・」と糾弾して議会から除名されたことは決して忘れてはならないことだと思う。 私見だが日本の戦争に至る原因は今日の言葉で言えば構造改革に取り組まなったことにあるのではないかと考える。当時、日本経済の問題が農業問題でありであり農業生産力の低さが農地所有の不平等に起因する等すでに近藤康男教授などが指摘されていた。所得分配の著しい不公平さが有効需要の不足を招き、これを補う投資、とりわけ政府支出は軍事費が過半を占めた。いうまでもないことだがこれは将来の産出力の増加には結びつかない。ただ当時の社会状況では構造改革などという生易しいものではなかったろう。とにかく全国各地で小作争議が頻発したが、時代の制約があつて農地改革など思いも及ばなかったのであろう。歴史に「もし」という言葉はないとしても三歩前進二歩後退、もしくは一歩後退という方策を考えてもよかったのではないかと思う。こうした様々な内部矛盾を一挙に解決するべく、「大東亜の新秩序建設」のスロ-ガンの下、「満蒙は日本の生命線」などの掛け声で中国大陸への侵略戦争に突き進んでしまった。
 
 ただ小作争議などの歴史的前提があって戦後のGHQの農地改革が成功したのではなかろうかと考える。目の前にある問題の解決に着実に取り組むことが最善の道で、こうした努力なく一挙に問題を解決することは不可能だと思う。普段からの取り組みを欠くと政治改革、行政改革、教育改革等々一挙に難問が押し寄せてくる。そんなことで私はアングロサクソン流の「歩きながら考え、事にあたるという」ことがとても大事だと考える。

 私は、当初、哲学にまつわる二、三の思い出を書いていたが、こんな分不相応なことを付け足した動機は木の又小屋で知り合ったS老人から、毎年、当世考現学覚書なるパンフレットをいただいたことだ。彼は今の政治や社会の有様を非常に憂いておられるのだが、何年か前のパンフレットの一節に「先輩が憤死をしないかと心配しています。」とあった。この揶揄ともとられかねない文言が私の頭から離れない。

 私は沖縄特攻に向かう戦艦大和のガンルームで若い学徒出身の青年士官達が死を目前にして、何の為に死ぬのかと激しい議論をしていた様子を山道で聴いていると涙が止まらない。あの戦争を身をもって生き抜かれた人たちには今日の有様はとても黙ってはおられないのだろう。私達後進の人間が政治や経済や社会の有様に目を向け、次の世代に語り継がなければと思う。

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