魯迅と仙台


私は、昔、自宅に送られてくる岩波書店の広報誌「図書」を愛読しておりました。この小冊子は梅棹忠夫先生の「知的生産の技術」が連載されるなどとても面白かったのです。この小冊子で魯迅と仙台のかかわりから青葉城址に「日中不再戦」を念じて魯迅記念碑が建てられたことを知り、魯迅の「朝花有捨」(岩波文庫)に所載されている「藤野先生」という小文を読みました。

魯迅は1904年から1年半仙台医学専門学校に留学をしていました。この仙台医学専門学校で魯迅は解剖学教授の藤野厳九郎先生に出会うのです。先生は講義のノ−トが十分に取れない魯迅にそのノ−トを提出させ抜け落ちている箇所を朱筆で補い、文法の間違いまで訂正して返すのです。これは魯迅が在籍していた期間続きます。

「(細菌学の授業で細菌の形態を幻灯で見せるのだが、時間が余ったときは)時事の断片を映して見せた。むろん、日本がロシアと戦って勝っている場面ばかりであった。ところが、ひょっこり、中国人がそのなかに雑じって現れた。ロシア人のスパイを働いたかどで、日本軍に捕らえられて銃殺される場面であった。取り囲んで見物している群衆も、中国人であり、教室のなかに、ただひとり、私もいた。・・・・・その後、中国に帰ってからも、犯人の銃殺をのんきに見物している人々を見たが、彼らはきまって、酒に酔ったように喝采する。‐-嗚呼、もはやいうべき言葉はない。だが、このとき、この場所において、私の考えは変わったのだ。」

として医学から文学に志を変え帰国するのです。帰国に際して、先生は魯迅に裏面に「惜別 藤野 謹呈周君」と書いた写真を贈ります。

「(朱を入れたノ−トは失くしたが)ただ彼の写真だけは、今なお北京のわが寓居の東の壁に、机に面してかけてある。夜ごと、仕事に倦んでなまけたくなるとき、仰いで燈火のなかに、彼の黒い痩せた、今にも抑揚のひどい口調で語りだしそうな顔を眺めやると、たちまち私は良心を発し、かつ勇気を加えられる。そこで煙草に一本火をつけ、再び「正人君子」の連中に深く憎まれる文字をかきつづけるのである。」

私は’69年10月に結婚しましたが北海道から家内を連れてくる途中仙台に一泊をした折、この魯迅記念碑を見に青葉城址を訪れました。今月14日甥の結婚式に出席するため仙台を訪れました。翌日、家内と寄り道をして松島に遊びましたが、帰りがけ仙台駅で少し時間があり思い立って34年ぶりに青葉城址を再訪しました。伊達政宗公の大きな像の近くで見た記憶がありましたが、定かではありません。この銅像前にいた記念写真屋さんに尋ねると魯迅の記念碑と胸像はこの下の坂道をくっだたところにある博物館の裏手にあることを教えられました。静かな木立の中に魯迅の胸像と大きな記念碑がありました。34年前この記念碑の前に家内を立たせて写真に撮ったのです。色あせた写真に34年前の家内が写っていました。胸像は当時ありませんでした。この記念碑は上部に魯迅のレリ−フ、下に碑文が彫られているのですが、文字が薄くて読みとることが出来ませんが、この傍らに魯迅について書かれた金属製の説明板が英語、日本語、中国語と用意されていました。この記念碑は’60年に建設され、翌’61年の除幕式には魯迅夫人の許広平女史が来日されたこと、また’64年藤野先生の郷里福井市足羽公園に藤野厳九郎碑が建てられその台石には許広平女史の揮毫になる六文字が刻まれていること、’98年には国賓として来日した江沢民国家主席が仙台に来られたこと等は魯迅と仙台の深い繋がりのたまものです。魯迅と藤野先生の年齢差は7歳で、魯迅が先に逝去されたのですが、先生は魯迅が逝去されてからご長男に教えられて「魯迅選集」の写真を見て自分の教え子の周樹人が魯迅と知ったのだそうです。「わずかな親切をそれほどまでに恩義として感激してくれたとは」と言われたそうです。一人の日本人の行為がこうして中国と日本を結んだことに深い感銘を覚えます(03/9/17記)
 


 藤野厳九郎先生は明治7年(1874年)7月11日に福井県芦原町下番の医師藤野升八郎の三男として生まれ、幼少より父に漢学を習い、8,9歳の頃中番にあった野坂塾で漢学を学んだという。龍翔小学校、福井中学を経て愛知医学校を卒業した。母校と東京帝国大学で引き続き解剖学を研究して、明治34年に仙台医学専門学校講師となり、やがて教授となった。1915年仙台医学専門学校が東北帝国大学医学部に改組されるに伴い、職を辞して郷里福井県芦原町下番に戻り、医師として診療に当たった。昭和8年から昭和20年までは三国において暮らし、昭和20年(1945年)8月11日没、享年73歳。
藤野厳九郎碑の題字は魯迅夫人の許広平女史の筆になります。


 1時30分のバスで白峰に戻って総湯で一浴びした後、福井に戻った。福井9時50分発新宿5時30分着の夜行バスを予約しザックをコインロッカーに預けて観光案内所に向かった。足羽公園にあるという藤野厳九郎碑のことを尋ねたがわからないようで、あわら市にある藤野厳九郎記念館のパンフレットを頂いた。足羽公園は車であれば4,5分とのことでタクシーで向かった。運転手さん公園の茶店で所在を聞いてこられて案内をしてもっらた。階段を10段位上がったところに「惜別」と刻まれ台座に藤野先生のレリーフが埋め込まれていた。裏面の文字はかすれて読めない。私は中国奉天(瀋陽)で生まれているし、母から私が生まれた当時の日本人の中国人への思い上がった振る舞いを聞いているので、この藤野先生のことを知ったときはは深い感動を覚えたのだ。先生のレリーフを見て感動を新たにした。藤野先生は日本人の良心であり、誇りだ。観光案内所の若い女性が、「中国の方で藤野先生の名前を知らない人はいないそうですね」と云っていたが、願わくば日本人でも知らない人がいないようにしたいものだ。(’10/8/7山紀行に書いたものです)  

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