‘99年1月6日塚本神父は天国に旅立たれた。神父が東京大田区の洗足教会におられた頃、仕事の関係で知り合い、その後、横浜の現在地に荒先生と幼児才能開発センタ−天使園を開設されて以来、会計の仕事を通して長いお付き合いをさせていただいた。カトリックの神父さんというととても気難しく近寄りがたく思うが、天使園を開設された頃の神父は教会の一線を退かれた後でもあったのだろかとても気さくでいろいろとお話を聞かせていただいた。事務所のゴルフのコンペにも参加していただいたりとてもお元気であった。神父は平成4年に聖マリアンナ医大で癌の手術をされたが、退院後は小冊子を出版されるなどお元気になられた様子であったが、すでに癌は別のところに転移しているようであった。病状は天使幼稚園を担当しているT君から報告を受けて逐一聞いていた。自室で休んでおられて、幼稚園に行ってもお会いできなかった。神父の書かれた小文は幾つかは読ませていただいていた。神父は、毎年3月、天使幼稚園の卒園記念誌「天使の集い」 を刊行されていて、ここに折々の神父のお話が掲載される。学校法人天使学園梅が丘幼稚園の監事をしている私も毎年いただいている。小さな幼稚園の様子がうかがわれてなかなか面白い。卒園児達がたどたどしい文章ながら夢を語っている。若い両親達の手になる小文も格別の中身があるわけではないが、私自身の子供が成人した後だけに全く別な世界を覗き見るようで気持で読ませていただいていた。また神父は何巻もの小冊子を出されていて出版の度に頂いた。槍が岳の山頂でミサをあげたお話など興味深く読ませていただいた。平成5年3月にいただいた「司祭館の屑籠」を読んでいて「愛の祝典(二つに大広間)…・・ペンテコスケ祭」なる章に目が留る。 「人間社会の歴史は闘争の歴史であると言っても過言ではない。そこには個人主義、利己主義がまき起こす、種々の争乱がある。「己の欲せざることを他人に為さず、己の欲することを他人にも為す」という社会生活の鉄則が無視されている。今こそ、人間の社会に「真実の愛」の精神を復興させなければならない。いったい、愛とは何であるのか。 キリシタン時代に作られた葡日辞典には、ポルトガル語の「愛する」という言葉を、日本語では「大事にする」と訳されているが、けだし名訳であると思う。つまり真実の愛には常に相手のこと、相手の立場が尊重されていることに注目しなければならないと思う。 その点、現代の巷間にのさばる「愛」は真実の愛ではなく、いわゆる利己主義によって歪曲されたものであると言える。」(塚本神父「司祭館の屑籠」) 「愛(あい)する」という言葉は日本語として馴染んでいるのであろうか。私にはなんとなくしっくりはこない。この言葉は古くから日本語にある言葉なのだろうかと考える。「めでる」という言葉は古くからあるようだ。これは何となく一方的な感じがする。神父のこの小文ではっきりとした。「大事にする」という言葉でより直截に明確にその意味することが伝えられる。私はあなたを大事にする。あなたも私を大事にする。こういう相互に働きかける意味合があるようだ。ちなみに学校法人天使学園梅が丘幼稚園の教育標語は「敬天愛人」だ。 追記 荒茂子先生を偲ぶ |