山で遭難碑を見る
 山道を歩いている時遭難碑を見ることがある。遭難碑とは云っても大体が岩に埋め込まれた金属製のプレ−トの類だ。読むと山で死んだ息子を追慕して両親が設置したものが多い。子に先立たれた親の悲しみをひしひしと感じる。なんとも名状しがたき気持ちとなる。とりわけ死者が生きておられれば私と同年輩の場合は深い感慨にひたりしばし足を止める。

 私は1958年高校2年の時に学校の教師をしていた父を亡くし母と弟と妹と北海道から上京してきた。現在住んでいる下丸子で菓子屋を譲り受け新しい生活が始まった。1961年に大学に入ったが大学から帰ると夕方は母と店番を交代し、母は食事の支度だ。週に3日は家庭教師のアルバイトをしていた。そんなことで当時ブ−ムであった山歩きとは無縁であったし、ブ−ムの存在すら知らなかった。大学を出て勤め始めても会計士の試験勉強でトンと縁がなかった。ようやく中年になって息子と登った雲取山が山歩きの始めだ。ゴルフはしないので週末ごとの山歩きを楽しんでいる。山歩きを始めた頃、母が癌を病み入退院を繰返していたが入院中にも山歩きを続けた。家内に、山に行っている時、万一何かあったらとどうするのと何度か云われた。丹沢で汲んだ山の水を山からの帰り病院に立ち寄り母に飲ませたことも有る。癖のない水だねといって飲んでいた。あんたの学生時代は貧乏で山どころではなかったからね。私はまだ大丈夫だから山に行っておいでとも云っていた。癌のことは本人がすっかり知っていた。近所の知り合いの方が某宗教への入信を勧めにきたときも癌が宗教で直るならお医者さんなどいらないからねと、さめた調子で話していた。息子としてはなんともいえない気持でただ聞くだけであった。病院に入院しても最後まで気丈でお金のこと家のことあれこれ言い渡された。おまけに医療費の領収書をきっちり保存していて死後に税金の申告に使うようにまで指示された時はまいった。二度目の入院は平成5年10月だった。家内、義妹、妹とが交代で病院に付き添い、わたしは仕事の帰り道、毎日、病院に立寄るのが日課だった。11月の下旬まだ意識がある頃、毎日毎日、息子さんが病院に来てくれるなんて奥さん幸せねと、同室の患者さんに云われたと話していた。最後位ゆっくりとさせてやりたと考え個室の話をしたが、本人がもったないといってなかなか承知をしなかった。満州から北海道、東京と平凡だが激動の大正、昭和、平成と生き抜いた一人の庶民が平成5年12月15日にお浄土に旅立った。母は強し、女は強し。

 そんなことで生きていれば私と同年輩の方の遭難碑を見るといつも自分の青春と母を思い出す。今、私は59歳で山を歩いている。何時まで歩けるか分からないが元気なうちは歩きたいと思う。とにかく山を歩いているといろいろな事を思い出す。
戻る