山のことあれこれ
山歩きの効用
 山歩きの楽しみは人によりさまざまだと思う。私はふっとした契機で中年から山歩きを始めた。そんなことで沢登りだ、岩登りだという技術のいる危険なことはしない。尾根歩き専門だ。歩くという単純な行為に何故こうもひき付けられたのか。歩き始めは昭文社版「丹沢」の登山道を赤線で塗り潰し、単純に赤線が増えるのを楽しんでいた。 続いた理由はこれだけではない。大学に入ったばかりの甥と登った大山でこんなことがあった。おりて来る途中、蓑毛の辺りで暗くなってきた。かなりの時間、二人とも無言で歩いていた。不意に、後ろを歩いている甥に「おじさん何を考えている」と聞かれた。不意を突かれて、思わず「人生とは何か、生きるとはなにかを考えている」と答えた。甥が「ふーん」と言っていた。とっさのことでそんなキザな返事をしたが本当は空白の状態だった。山の中を独りで長い時間歩いているとなんとも説明のできない空白の時間が生じる。浮かんでは消え浮かんでは消える。言葉にはならない。後から書き留めようとしても思い出せない。私はこういう状態を求めて山を歩くのかもしれない。山に行けない時、多摩川土手や都内を何時間も歩く。しかし、単調過ぎる上、人も多く賑やかで山を歩く時とは違った趣がある。山歩きの場合は、登ったりくっだりで変化があり、ふっと顔をあげた時見る景色がすっと空白になった脳の中を瞬時に埋めてくれる。ここが決定的に違うのだ。山歩きには精神的なリフレッシュ作用があるのであろう。またこんな経験もした。丹沢山の天王寺尾根を歩いている時、ふっと沢筋に目をやった。薄緑のブナの葉を透して降り注ぐ陽の光に感嘆の声が出た。この時、思わず和讃が口をついて出た。「なむあみだんぶ、なむあみだんぶ、・・・・・」、自分で歩いているのではない。歩かせて頂いているのだ。心の底からそう感じた。自然は何という大きな力で人間の心を素直にしてくれることだろう。日常の煩瑣な事から、かけ離れたこの時間が生きる力を与えてくれるのだ。単純な運動がこんなに深い意味を持つとは驚きであった。昔の山伏の山岳修行がどういう内容であったかよくわからないが、私のささやかな体験からも深い宗教的な啓示を受けたであろうことは理解出来る。こういう精神的な効用とは別に地図とコンパスを頼りに歩く読図山行きも別の楽しみを与えてくれる。まったくの前人未到の山域を歩くという訳でもないのだが、それでも道標もない踏み跡もさだかでない山域を歩く時の緊張感は何とも言えない。順調に歩いている時はいっぱしの経験者の気分で自信に満ちて歩く。しかし、いつの間にか別の尾根をくだっている。どうも様子が違うことに気が付く。これまでの自信とは打って変わり慌てふためく。自分に言い聞かす。落ち着け、全神経を集中してあたりの地形を観察せよ。地図で現在位置を確認せよ。分からない。遭難の二文字が脳裏をかすめる。落ち着け、落ち着けと何度も自分に言い聞かせる。坐って水を飲む。どうやら気持ちが少し落ち着く。それから元のところに戻る。もう一度辺りを観察する。地図を見る。コンパスを見る。東にもう一つ尾根が延びている。こっちだ。かすかな踏み跡も見つかる。ヤレヤレだ。なに食わぬ顔でまた歩き出す。こうして登りきったりくだりきったりした時の満足感は何とも言えない。慌てふためいたことなどすっかり忘れている。山を歩くという単純な運動がこんなにさまざまな楽しみを持つとは驚きだ。 (「山歩きの楽しみさまざま」と題して、新ハイキング誌95年10月号掲載)

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