菅原正巳先生
 菅原先生には統計学を教わりました。先生は非常勤講師として出講しておられました。講義は初歩の統計学ですから標準偏差、相関係数、最小自乗法くらいまでで指定された教科書もなく格別難しいものではありませんでした。ただ何故か私は先生の講義に魅せられたのです。先生のことは詳しくは知らないのですが、授業中の話で政府の研究機関に所属しておられて建設省のダムの水位の調節、タンクモデルの構築に関わられたことを知りました。後年、図書館で先生の書かれた「流出解析法」を手にしましたが、先生の研究分野が水文学とうことを知りました。何故この先生のことが記憶に残っているのかというと私の中学の頃の思い出と重なるからです。

 私は中学生の時吉川英治「新平家物語」を読み読書のおもしろさを知りました。この頃読んだ「源平盛衰記」などは今でも思い出します。京に上った木曾義仲が巴御前と初めて参内したとき身につけていた鎧が派手な色で並み居る公家から木曽の山猿よと嘲られた話など鮮やかに思い出します。私の読書歴を振り返って一番影響を受けたのは「文芸春秋」ではないかと思います。私の父は戦後高校教師なりましたので本を読んで勉強をしている姿など見たことはありません。ただ毎月購読していた「文藝春秋」は読み終わると中学生の私に渡されるのです。そんなことでこの雑誌は毎月熱心に読みました。桑原武夫先生の書かれた西堀栄三郎先生のこと、京都府立三中森外三郎校長(?)のこと、連載されていた吉川英治の自伝などを思い出します。とりわけこの西堀栄三郎を論じた文章はは未だに私に影響を与えています。桑原先生の書かれた西堀先生にまつわるエピソードを幾つか書いてみましょう。
三高に在学中桑原先生が後ろの席から何か質問をされたそうです。外国から取り寄せたスキー(?)の技術にに関する高価な洋書を破ってメモ用紙に使って回してよこしたそうです。読んで覚えてしまえば後は格別なものではないという考えに桑原先生は驚かされたそうです。南極観測船宗谷の改装の話では当時の文部省の役人が教授室、助教授室、講師室と改装案を出されたとき南極まで大学の職制を持ち込むとはとんでもないと反対されたそうです。西堀先生は戦前は京大の助教授(無機化学)だったそうですが、戦時中に大学を辞められ、東芝に移られました。真空管の製造では工業技術院賞を受けています。京都大学から東芝に移られた動機にはGEの天才的な科学者アービング・ラングミューアの存在があったと言われています。アービング・ラングミューアは1932年のノーベル化学賞を受賞していますが、狭い領域に収まるような科学者ではなく物理学者であり、天才的な技術者であったそうです。工場のひと隅に事務所を設け、工場内をぶらぶらして工場内で起きる製造上にあらゆる問題に取り組んだそうです。戦後は技術コンサルタントとして活躍されました。戦後日本に紹介された推計学を駆使して旭化成延岡工場でベンベルグの糸の切れる問題を解決された話は有名です。品質管理で有名なデミング博士が日本には統計学の学者はたくさんいるが真の統計学者はDR.NISHIBORIだけだといわれたそうです。西堀先生の考案された「二項確率紙」は先生のお弟子さんの手で小冊子として日科技連から出版されています。私はこの先生のプラグマテズムに徹した行動に強い影響を受けました。

 話は大きくそれてしまいましたが、菅原先生もプラグマテストでした。先生は日本の水文学のパイオニアだそうです。先生が資源問題調査会の機関誌に載せられた数式が世界中の水文学者に利用されたという話は私に深い感銘を与えました。(未完)

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