山からの短信

1991年の記録

1. 1991/8/11 筑波山

ここに登ったことが山行の契機となる。登ったとは言ってもケーブルであがり、30分前後歩いたばかりなのだが。

2. 1991/8/16−17 雲取山

夏休みの旅行は京都か奈良の予定でいた。正之は11日の筑波山の岩場の登りが余程面白かったとみえて山行を希望する。それがたまたま東京の屋根という表題に惹かれ雲取山となる。この雲取山は天候に恵まれ感激の連続だ。ここから私の山行が始まる。本当に思いがけない始まりだ。

3. 1991/8/25 高水三山(高水山、岩茸石山、惣岳山)

雲取山の興奮がさめやらぬまま、奥多摩入門の山とかで正之と出かける。二人ともニッカスタイルで電車の中では気恥ずかしさにひたすら下を向いている。

4. 1991/9/1 御岳山・日ノ出山

裏参道から登る。このコースは御岳からの下山路に使う人が多いようだ。交わす挨拶で人疲れする。ありきたりと思われた山にもいろいろな楽しみを知る。失礼。

5. 1991/9/23 棒ノ折山(&岩茸石山、惣岳山)

登山専門店に出かけいろいろと用品を買い求めだす。山頂でMSRウイスパーライトを使いレトルトのカレーを食べる。一人悦にいる。

6. 1991/9/29 大岳山

奥多摩三山(大岳山、御前山、三頭山)の一つ。シリーズものは全部登ってみたい。大岳山頂上で人の多いのに驚く。山の手線のプラットホームみたい、という女の人の言葉には同感だ。

7. 1991/10/5 御前山

奥多摩三山(大岳山、御前山、三頭山)の一つ大岳山を登れば次は御前山だ。私の悉皆主義(?)が頭をもたげる。山頂で中年女性二人組に下山路を尋ねられ、湯久保尾根を降る旨を答える。私の後をついていっていいですか、と頼まれ承知する。長い下りを一緒に下山する。地図も持たず人任せの中年女性には驚く。しかしこれもまたよし。

8. 1991/10/20 三頭山

残る奥多摩三山(大岳山、御前山、三頭山)の一つ。中腹に広がる「都民の森」の 惨状には腹が立つ。この山行きよりにわかに自然保護派になる。

9. 1991/11/3−4 丹沢主脈(表尾根、塔ノ岳、丹沢山、蛭ガ岳、黍殻山、焼山)

 丹沢主脈を縦走する。塔ノ岳山頂の尊仏山荘に公衆電話があり、家に電話をして予定外の山荘泊り、となる。丹沢山から蛭ガ岳の尾根歩きでは感激の連続だ。以後、丹沢山域が私の主なるフィールドとなる。

10. 1991/11/16 大山(伊勢原)

丹沢山域に足を踏み入れる挨拶代わりに登る。登山路はいろいろあるが、まずは正面からの道をとり下社に参拝後山頂を目指す。

11. 1991/11/24 塔ノ岳・鍋割山

鍋割山稜でブナの写真をとる。冬枯れのブナの原生林に感激する。 後日、この写真のブナを題材に巧子、「樹の霊」と題してパッチワークの大作を制作する。この作品は蒲田のユザワヤ手芸学院開催の手芸展で銅賞を授賞する。

12. 1991/12/1仏果山・経ガ岳

登り道を間違え、沢から遮二無二尾根伝いに登る。 頂上にハンターがいて二度びっくりする。

13. 1991/12/15 大山三峰山

ガイドブックの鎖場や岩場の連続との説明文に惹かれ出かける。 狭い頂上で人の多いのに驚く。次から次にと登ってくる。蜜柑を落としたら、ころがって行く。残念。早々に場所を譲り、下山する。

14. 1991/12/29 本仁田山

家の大掃除をさぼり出かける。こうなるとほとんど病気の状態か。 登りきった尾根には雪がかなり残っていて北海道での冬を思い出す。


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