山 紀 行

上州武尊山
「武尊をホタカと読める人は、山好き以外にはあまりいないだろう。山名は日本武尊(やまとたけるのみこと)からきたといわれている。前武尊の頂上には高さ四尺くらいの銅像が立っているが、それは日本武尊を現したものである。日本武尊の東征と山とは縁が深い。碓日峠、四阿山、両神山、武甲山、神坂峠、それから伊吹山へと、みなこの古えの武将の言い伝えが残っている。そして武尊山に至っては、名前まで同じである。武尊山が昔から宗教野山であったことは、最高峰の頂に御岳山大神と刻んだ石が立っていたり、剣ケ峰の頂に普寛霊神が祀ってあったりすることによって察せられる。大たい日本で古くから行者が信仰的に登る山は共通の性格を持っている。それは大たいが厳つい岩のある山であって、その難所を通過することが修行になっている。関東の両神山や庚申山、信州の戸隠山、関西の大峰山などみなそうである。そして岩場には物々しい鎖や鉄梯子が取り付けられているが、それらは登攀を容易ならしめるためより、参拝者に畏怖の念を起こさせるための道具立てのようにさえ思われることがある。わざと険しい箇所を択ったり道の付け方まで似ている。」(深田久弥「日本百名山」)

第1日目
 上野発7時20分の新特急水上1号に乗るので9時30分には沼田駅に到着だ。ホームは登山やらハイキングの客で一杯だ。殆どの人たちが尾瀬に向かうようだ。タクシーも4,5人乗せてはどんどん出て行く。待っているバスは大清水行きだ。バス会社の案内員に聞くと川場村行きは11時30分しかないという。バスの時間を調べておくのであったと悔やむが仕方がない。2時間も待たなければならない。こうなると覚悟を決めるしかない。バスの待合室で持ってきた「ノモンハンの夏」を読んで時間を潰す。そんなことで退屈はしない。10時4分電車が到着すると、30歳代後半の大きなザックを担いだ人がバス停に来る。武尊山組だ。結局、川場村に向かう登山者は二人だ。川場温泉口で降りて、お先にと声を掛けて歩き出す。とにかく車が多い。そんな車道を一人歩く。今日は避難小屋泊まりだ。2,3時間歩かなければ来た甲斐がないというものだ。途中、武尊温泉、木賊山荘を横目でみながら歩く。ここに泊まって明日登れば最高なのだが。とにかく歩け、歩けだ。
 やがて川を隔てた向こう側の斜面に小屋が見える。旭小屋だ。車道から斜面を降りて川を渡る。小さな石碑を見る。木の枝には「発心の修験」と書かれた木の札がぶら下がっている。この川場尾根は昔からの信仰の道だったのだ。「発心」という文字を見て、四国八十八箇所の霊場のことが頭に浮かぶ。西国八十八カ所の霊場は大きく「発心の道場」、「修行の道場」、「菩提の道場」、「涅槃の道場」と分けられている。小林淳宏氏の遍路体験記「同行二人」を読むとこの区分が四国の地理的特徴と霊場の配置の絶妙な組み合わせになっているようだ。この川場尾根も発心、修行、菩提、涅槃と分けられるのであろうか。ただ一般的に言えばどの山道もこういう心理的なプロセスを登る人間に与えるようだ。
 旭小屋は木の香も新しい小屋だ。それにしてもこんなに車道から近くにある避難小屋も珍しい。2時40分だ。小屋の前で「ノモンハンの夏」(半藤一利)を読む。60年前の満州の荒野で起きたこの事件がその後の日本の運命を暗示する。幼年学校、陸士、陸大とエリートコースを出た軍人達の無責任、無能は、今日の官僚と同じではないかと思える。こんな無能な連中を指揮監督(明治憲法の最大の問題点である統帥権の独立の問題があるにしても日露戦争時には一応元老達が大きな戦略を決めた。なにもできずに右往左往する政治家、結局、国家の進むべき方向をデザインできない政治のリ−ダ−シップの欠如が問題なのだ。ここに何十年経っても変わらない日本社会の病理があるように思えてならない。こんな静かな山の中で読むのにはいささか重すぎる本だ。
 薪を集める。6時頃寝る前に薪を燃やして小屋の中を暖めて寝ようというわけだ。これが大失敗だ。煙で燻されて喉は痛いし目は開けていれない。窓を開けて煙を出すのでなにをやっているのか苦笑しきりだ。しかし後から考えるとこれが良かったのだ。小屋に巣食う虫や蛇やらを追い出したようだ。

第2日目
 5時頃目を覚ます。パンと野菜ジュースで簡単な食事だ。ザックを詰め直したりしていると戸が開いて女性が中を覗く。前夜、武尊温泉に宿泊して車で送ってもらったそうだ。途中で朝食を食べますので先に行きますと直ちに出発される。6時小屋を出発する。斜面を巻いて尾根に出る。緩やかな登りだ。今日は天気も良いしありがたい。人影のない緩やかな道を登って行く。所々に小さな観音様が祀られている。朝の冷気が清々しく、なんとなく敬虔な気持となる。先程の女性がおにぎりを食べている。小休止だ。お互いに情報交換だ。この後、一緒に歩き出す。大阪から来られたそうで百名山も87座だとか。驚くばかりだ。やがて賽の河原となずけられたところに来る。

「サイは非常に古い言葉です。人々は、峠や村・境・辻・橋を自分の住む世界と他界との境の地と考え、こういう所から伝染病その他の人々に恐ろしいものが入ってくると困りますから、こういう所に<サエノ神>を祀ったのです。これがやがて仏教化して、この世とあの世の境と思われる所を賽の河原と呼んだというのです。地下の世界、別世界への入り口ですから死者の霊はここを通って別世界へ到るわけでありますし、ここに死者がおもむく三途の川のイメージを重ねて、地獄の苦しみなどから救ってくれる地蔵菩薩を祀ることになりました。また賽の河原は別世界への入り口ですから異郷からこの世に霊がよみ返ってくるところでもあり、霊が憑く石がごろごろしている所ともなるわけです。」(増田和彦「日本百名山と文化史」)

「民衆にとってもっとも親しい存在となった地蔵は、中世後期から近世にかけ、さまざまの民俗信仰と習合し、本来の経説の枠を越えた独特の信仰を形成する。いわば地蔵信仰の民俗信仰化だが、その際、地蔵を子供の守護神とするなど、地蔵と子供を結びつけた信仰形態が、特徴的に認められる。・・・・・・・
中世の初めまでは、貴族社会でも、七歳くらいまでの子供が死んだ場合、仏事を行わず遺体を山野や河に捨てるのが通例だった。しかし葬式仏教が発達する室町時代の15世紀ころになると、童子童女の位牌が現れはじめ、幼児についても大人に準じて追善すべきだとの観念がしだいに生じてくる。こうした幼児の死についての関心の高まりの下に、夭折し追善を受けなかった子供たちの賽の河原の物語が生まれるというのである。

帰命頂礼地蔵尊 物の哀れのその中に西院(=賽)の河原の物語・・・・・・・
十より内の幼な子が 広き河原に集りて父を尋ねて立ちまわり 母を焦がれて嘆きぬる
あまりの心の悲しさに石を集めて塔を組む一重積んでは父を呼び 二重積んで母恋し
しばし泣き居る有様を地蔵菩薩の御覧じて汝が親は娑婆にあり今より後はわれはみな
父とも母とも思うべし深く哀れみ給うゆえ大悲の地蔵にすがりつつ我も我もと集まりて
泣く泣く眠るばかりなり(速水 佑「観音・地蔵・菩薩」)

 川場野営場からの道と合わせたところで小休止だ。ここで中年男性と合流だ。この方も武尊温泉に泊まって車で川場野営場まで送ってもらったという。ここからは樹林帯の長い急な登りだ。やがて稜線に出たようだ。にわかに展望が開ける。ここからは厳しい岩場の連続だ。いわば「修行の修験」か。不動岩だ。岩を回り込んで垂直に岩壁を鎖に掴まって15b位下る。鞍部からは岩峰の基部を右にトラバースして「カニノヨコバイ」という斜面に取り付く。続いて鎖で大きくくだる。いよいよ長い登りだ。一番つらいところかもしれない。平らなところに出ると前武尊だ。大勢人がいる。ここで小休止だ。最近ではこの川場尾根を登りにとる人は少ないようだ。
 ここからが「菩提の修験」か。賑やかだ。今日は山田杯という山岳マラソン競技が行われているのだ。川場野営場から天狗尾根を経由して登ってくるのだ。ゼッケンを付けて、10キロ、15キロと石を詰めたザックを背負って走り抜けるのだ。にぎやかで静かな余韻を楽しんでの山歩きとは縁遠い。自分一人の山ではない。我慢するしかない。信仰の山道がスポーツの山道に変わる。これも時代だ。川場剣ケ峰、トサカ岩の岩峰は平成2年の台風で崩壊が進んだとかで登ることが禁止されている。ここは巻き道がつくられている。やがて家ノ串だ。武尊牧場口から登ってくる人の姿が遠望される。自動車を利用しての山歩きをする人が増えるとすっかり登山道も変わってくるのだ。川場尾根を登山道脇のお地蔵様を見ながら静かな山道を歩けただけ良かったというべきか。登山道は中ノ岳の下を巻く道だ。途中で笹清水という水場がある。ここにもお地蔵様がある。やがて沖武尊だ。
 人が多い。ひと登りで山頂だ。武尊神社口から登ってくる人と武尊牧場口から登ってくる人と大変な賑わいだ。川場尾根の静寂さと比べると雲泥の差だ。朝まであんなに見晴らしが良かったに、もうガスがかかり展望は利かない。記念写真も撮った。バスの時間も気にかかるので下山開始だ。ここからが「涅槃の修験」か。しかし、ロープを補助に岩場をくだるのでとても気は抜けない。涅槃の境地にはほど遠い。それにしても長い。途中、武尊神社の林道まで車で入り山頂を往復してきたというご夫婦と一緒に休憩だ。沢の道は水が多くて歩きにくい。登山口に出てから左手に宝樹台スキー場のゲレンデを見ての車道歩きだ。このあたり一帯はスキー場なのだ。三人で歩きながら話をするので退屈をしない。やがて上ノ原だ。バスの時間まで1時間以上もある。バス停の前でザックの中の食糧整理だ。せっかく減った体重がすこし戻るが空腹には勝てない。この後、水上に出て急行で上野に帰り着く。

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