山 紀 行

戸隠山&高妻山
戸隠連峰は、北の乙妻山から南西のはずれの一夜山まで、約20キロを指し、一不動以北を裏山、八方睨付近までの中央部を表山、南西側を西岳と呼んでいる。 この戸隠連峰は、決して一般向きの山ではないといわれている。断崖絶壁とその高度感は、北アルプスにも決して引けをとらないのである。戸隠山は北信五岳(斑尾山、妙高山、黒姫山、戸隠山、飯綱山)の一つで、屏風のように急峻でしかも鋸の刃のような山容は、人を寄せ付けないような厳しさがある。

第1日目(9/11)

東京6:20−−新幹線あさま−−8:01長野8:17−−善光寺−−バードライン−−中社−−9:35奥社入口 戸隠山 奥社入口10:15−−随神門−−奥社−−五十間長屋−−百間長屋−−天狗ノ露地−−胸突き岩−−蟻ノ戸渡り--剣ノ刃渡り−−八方睨−−九頭龍山−−一3:10不動避難小屋(泊)
 
奥社入口から観光客と一緒に歩く。随神門から奥社までは大きな杉の大木が参道の両側に起立してなかなか見事だ。見かけた登山者は四人で、金曜日とあらば少ないかもしれない。この戸隠神社は神話「岩戸伝説」で、手力男命が押し開いた天ノ岩戸が飛び来て戸隠山となったという、その手力男命を祀る神社だ。伝説もさもありなんと思える衝立のような絶壁の下の奥社にお参りした後、社殿裏の大きな杉の木の右側を上がる。右脇には、「戸隠山一帯は崩壊が激しく十分な注意が必要」だという地元遭難対策協議会の注意が張り出されている。用意してきたワープロの登山届を投函して早速に歩き出す。登山道は、いきなりの急斜面(右に上がる斜面)から始まる。登山道に露出した木々の根を踏みながらジグザグに高度を稼いでいくのだが、ここでは身体が慣れるまで、ゆっくりのペースで歩く。傾斜は相当きつく、雨や雪の日などは特にスリップに注意が必要のようだ。奥社の屋根が真下に見える頃、小さな尾根に出るが、今度はさらに急な道を左右に折れながら上がっていく。大きな岩があるところで小休止だ。ここからは表山が屏風のように見え、景色のどの部分を切り取っても水墨画になりそうな感じだ。 ようやく息が切れはじめたと感じ始めるころ。目の前に高さ40〜50m、長さ50〜60mの岩壁が迫ってくる。下部が2〜3m位のところで丸く抉れているが、ここが五十間長屋である。景色も陽当たりも良く休憩には最適だ。これならにわか雨の場合は雨宿りに最適だ。左下がりの斜面を岩に沿って上がり、今度は、百間長屋というところに着く。五十間長屋よりも規模が大きく、ここも下方が抉れていて休憩ができる。見上げれば切り立った岩壁だ。表山は、安山岩質凝灰角礫岩と泥岩、砂岩、凝灰岩層等から出来ているそうだ。断崖は硬い凝灰角礫岩が残り、砂岩、泥岩が削れるという差別浸食の結果形成されたものだそうだ。この大断崖というか絶壁は、ほぼ垂直といってよく、高さは数百mもある。五十間長屋や百間長屋の岩場は、この一部である。鎖につかまって小さなコルに出るが、ここが天狗の露地である。本院岳の岩稜が間近に眺められる。このコースで一番の見所というか歩きどころは天狗ノ露地から胸突き岩、蟻ノ戸渡り、剣ノ刃渡り、八方睨までの間だ。前半は鎖場の連続で、ほとんど垂直に近い。後半はやせ尾根というより、戸を横に立てたような感じだ。この箇所の第1段目が蟻ノ戸渡り.第2段目が剣の刃渡りだ。いずれも幅は肩幅くらい、左右は数百bの絶壁だ。とりわけ左は樹林があるもの下が見えない。右は崩壊していて巻き道も完全に消失している。最初は腰を下ろして心を静めてそろりと立ち上がる。15b程だが、ゆっくりと歩き出す。中央が窪んでいる。ここも最初跨ってまず心を静める。次に気合いを入れてそろりと立ち上がる。中腰でゆっくりゆっくり歩き出す。渡りきればやれやれだ。この後、鎖場を登れば八方睨だ。朝バスで一緒の夫婦が先着している。目の前の特異なギザギザした山容を見せるのは本院岳(この稜線を総称して西岳という。)だ。ここばかりは素人ではとても歯が立たない。何人もの人が滑落して命を落としているのだ。北西には明日登ろうという高妻山が見事な姿を見せる。山頂から右に五地蔵山に連なる稜線がすっきりとした線を引いている。  八方睨からは登ったりおりたりの縦走路だ。ところどころ右側は切り立った絶壁である。いくつかの鉄柵を見るが、これは奧社の雪崩対策用だという。九頭龍山という山名が暗示をしているようにこの稜線は登ったりおりたりでなかなか歩き出がある。人影のない稜線を左手に明日登る高妻山を見ながら歩く。 「この御峰通りには、古くは表山三十三窟といって、所々の岩に仏像が祀られていたという。足下から麓の森まで一気に削り落としたような岩壁や、その森から飯縄高原まで拡がった濃淡入り混ぜの美しい原や、この尾根道を辿りながら、楽しい眺めが得られるが、もし本当に山の好きな人だったら、その眼をすぐ反対側に返すことを忘れないだろう。その側に、すぐ真近に、高妻山がスックと立っているからである。スックという形容がそのままあてはまる気高いピナクルである。殆んどその土台から絶頂までの全容が望まれる。立連なった戸隠表山の端に、一きわ高く峰頭をもたげている高妻山、その脇にかしずくようにつつましく控えている乙妻山。白馬連峰から、志賀高原から、頸城の山々から、いつも遠く眺めても見飽きない山であった。あまりその名が知られていないのは、平野からすぐ眼につく山ではなく、ごくそばへ近づくか、遠く離れなければ容易にその姿を見せないからである。古くから私の好きな山であった。」(深田久弥「日本百名山」)  ひとしきり下ると樹間から丸い屋根が見える。一不動避難小屋だ。あたりには人影はない。今夜は一人のようだ。ザックを置いて早々に水場にくだる。明るいうちに食事をして、明日の水の用意だ。15分下りたところに冷たい水が出ている。顔を洗う。小屋に戻り、食事の支度だ。鈴の音が聞こえると、朝、奥社の参道で見かけた人が到着だ。ずいぶん疲れた様子だ。今夜はこの人と二人で泊まることとなった。お互いホットした。何度か経験はあるというもの山中の無人の小屋で泊まるとなると緊張をする。この後、二人で四方山話だ。相模原から車で来て奥社の入り口前の駐車場に置いて来たそうだ。


第2日目(9/12)

高妻山 一不動避難小屋6:00−−10:10高妻山11:10−−1:00一不動避難小屋−−一杯清水−−戸隠牧場−−2:10戸隠キャンプ場2:23−−3:30長野駅4:33−−高速バス−−8:20新宿

 一緒に一不動避難小屋を6時に出発する。ひと登りすると尾根に出る。ここで左手の木の幹に二釈迦と書いた標識を見る。眼下には戸隠牧場が一見したところゴルフ場の様に拡がっている。目を上げれば飯綱山がどっしりとした山容を見せる。山腹の広くくぼんで拡がっている所はスキー場だろう。見渡す限り樹林帯が拡がり、豊かな自然が感じられる。この後、三文殊、四普賢と標識を見る。ピークの頂上に出る。ここが五地蔵山の山頂だ。五番目の標識が地蔵だ。一帯は笹原で見通しは利かない。この後、六弥勒、七薬師、八観音と標識をたどり、登ったり下ったりの道を歩く。やがて高妻山の尾根を登ると九勢至と書かれ標識を見る。このあたりから急登となる。やがて山頂の一端にあがりきったようだ。平坦な道となる。少し登ると大きな岩が幾重にもおり重なった岩場だ。ここに十阿弥陀と書かれた標識と鑑(光輪を背にした仏像をくり抜いた板)が祀られている。とにかくここで一休みだ。この後、岩場を少し歩いたところにある高妻山山頂に向かう。この時間となると大勢登ってくる。山頂では白馬だ、槍だと、皆さん、山座同定に余念がない。これが山頂での一番楽しいひとときだ。

「日本仏教が貴族や上流武士など一部支配層にとどまらず、広く農村や都市の中に根をおろすのはこの時代(室町時代)だが、そうした仏教の底辺拡大=民衆化と不可分の形で進行したのが、仏教諸派の葬式仏教化と密教化である。荘園制が崩壊し、近世的な村が形成されるはじめるにつれ、仏教諸派は葬送の民俗を仏教儀礼として再組織し、それを中核として寺壇関係を固めるという方法で、民衆の日常生活の場に深く浸透していった。・・・・・・・  民衆に葬送追善を勧める僧たちが好んで利用したのは、民衆の素朴な冥界への恐怖であり、これを十王信仰を媒介として、葬送追善の必要性に結びつけたのである。 十王信仰とは、人は死後、順次十人の冥府の王の審判を受け、生前の功罪が裁かれるという信仰で、中国の「預修十王生七経」が原形だが、この信仰が日本に伝えられ発達して、「地蔵菩薩発心因縁十王経」が偽作された。この「地蔵十王経」は、これら十王のそれぞれに、不動・釈迦・文殊・不言・地蔵・弥勒・薬師・観音・阿宿・阿弥陀を本地仏として配した。・・・・・・  そして十王の裁断に苦しむ亡者を救うのは、閻魔の本地の地蔵菩薩に他ならず、「極悪罪人の海、よく渡し導くものなし。地蔵の願船に乗らば、必定して彼岸に到る」というのが、「地蔵十王経」の結論である。」(速水佑「観音・地蔵・不動」)

いよいよ下山開始だ。登ってくる人達と会い出す。不審気な様子で早いですねと声を掛けられる。避難小屋に泊まった旨を答えると納得の様子だ。早く下山してくる様子を見ると気が焦るのであろう。風通しのよいところで何回か休む。やがて小屋に戻りザックを回収する。もう床にはシュラフが幾つも広げられている。場所取りの様相だ。今日は土曜日で泊まる人が多いようだ。休憩する人も多い。ガイドブックに週末の利用が多く、泊まれない人が多いとあるが本当だ。もっともそんな記事を読んでいたので金曜日に利用したのだ。昼食は下の水場で食べようと早々に出発だ。水場は登ってくる人、下る人と大にぎわいだ。ここから沢沿いの道を下る。不動ノ滝の落ち口だ。傾斜はさほどではないが一枚板状だけに雨の日は危険だ。鎖に掴まり降りる。このつぎも帯岩だ。ステップはあるが鎖に掴まり慎重に横断する。ここが下山の場合の一番の危険な個所だ。ここさえ通過すれば後、危険なところはない。ただ沢はずいぶんと荒れている。途中で何人かの人に小屋の様子を尋ねられる。あぶれたらどうするのだろうか。戸隠牧場の中を通り入口に着く。時計をみると2時5分だ。江戸屋と看板のある店に入って牛乳を飲む。同宿の相模原から来た人が先着している。長野駅行きのバスの時間は2時22分だという。早々にバス停に向かう。この後、渋滞もなく順調に長野駅に帰り着く。アルピコの営業所の前がバス停だ。4時33分発の新宿行きの高速バスに空席があるという。料金も4000円だ。新幹線の半分ではないか。今日中に無事帰り着けるとなるとどっと空腹を覚える。しかし、時間がない。そういえば戸隠のバス停の前で戸隠蕎麦の看板を見たが帰りの足の便ばかりが気にかかってそれどころではなかった。二日間、山の中でろくな物を食べていない。風呂に入って、蕎麦でも食べてさっぱりして帰りたいが仕方がない。駅前の売店でお焼きとお茶を買ってバスに乗り込む。バスも空席が多くのんびり居眠りをして新宿に帰り着く。


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