山 紀 行

穂高連峰(日本百名山前穂高岳、奥穂高岳、涸沢岳)

「穂高岳は昔御幣岳ともいった。空高くそびえる岩峰が御幣の形に似ていたからである。また奥岳とも呼ばれた。人里から遠く離れた奥にあったからだろう。梓川ぞいにバスが通じて以来、人人はたやすく神河内(上高地)に入り、そこから穂高を仰ぐことが出来るようになったが、それ以前は徳本峠を越えなければならなかった。峠に立った時、不意にまなかいに現れる穂高の気高い岩峰群は、日本の山岳景観の最高のものとされていた。その不意打ちに驚かない人はなかった。....
穂高の名は、岩の秀(ほ)の高いところから来たのだろう。秀は穂に通じる。その俊秀な姿から古くは穂高大明神の山と言い伝えられ、単に明神岳とも呼ばれた。現在では明神岳は、穂高から梓川へ下る岩稜の峰の名になっている。その裾に穂高神社があり、明神池がある。....
明治の末頃から、日本山岳会の先輩達が相次いで登り、これまで一括して穂高と呼ばれた岩峰群に、北穂高、奥穂高、涸沢岳、前穂高、西穂高、明神岳という風に、それぞれの名称が与えられるようになった。」(深田久弥「日本百名山」)

第1日目
上高地−−岳沢ヒュッテ(泊)

 先々週、槍が岳から北穂高岳まで縦走して南稜をおりた。今度は岳沢から前穂高岳、奥穂高岳、涸沢岳と逆コースを歩き、縦走路を完成させたい。奥穂高岳から西穂高岳は相当の熟練者でなければ無理のようだ。地図上も破線になっている。そんなことで初日のコースは上高地から岳沢ヒュッテまでなので東京を朝出ても充分に間に合う。夜行で一睡もせずに歩くのはこたえる。
 新宿発7時の特急に乗るが自由席は満員だ。座れるどころではない。前もって切符を買うわけでもないし思い立って電車に乗るのだから座れると考える方が無理というものだ。連結部分に座り込んでの難行苦行だ。松本、新島々は連絡も順調に行くが上高地の手前で渋滞となる。観光バスは帝国ホテルの前でお客さんをおろして歩かせている。乗り入れる観光バスが多すぎるのと安房峠のトンネルへ取付道路工事が原因だ。
 身支度も早々に上高地バスセンターを出発する。相変わらず河童橋のあたりは大変な賑わいだ。河童橋を渡って林間の周遊コースを歩き出す。時折ザックを背負った登山者を見るが、大半は軽装のハイキングの人達だ。ぞろぞろ大変な人だ。岳沢の標識を見て遊歩道と別れて登山道に入る。とにかくおりてくる人ばかりだ。このコースを登りに使う登山者は少ないようだ。確かにこのコースは登りに使う人よりくだりに使う人が多いそうだが、なるほどと思う。とにかく歩きやすい道だ。ただ暑くてかなわない。道は尾根を越えて反対側の斜面に回り込む。ここを少し歩くと風穴だ。早速ここで一休みだ。沢に石が堆積してその隙間から風が吹き出している。気化熱で冷たい風が吹き出すのだ。標識には「風穴(天然クーラー)」とある。成る程、冷たい風が吹き出している。
 おりてくる人、登ってくる人と多くなる。場所を譲らなければならない。道は広い沢沿いに付けられているので緩やかな道だ。やがて左手の木の枝越に建物が見える。岳沢ヒュッテだ。大きな石がごろごろする沢を渡り見上げると今夜の宿の岳沢ヒュッテだ。なかなか洒落た建物だ。テラスになっていて思い思いに休んでおられる。早々に受付を済ませる。部屋に案内されてザックを置いてあたりを散策する。部屋に戻ると千葉、神戸、静岡と全国各地から来られた人達でそれぞれ四方山話だ。お隣は千葉から来られた方だ。(Tさんといい、翌日、カモシカの立場から一緒に歩く。)
 夕食は旧館の前でお湯を沸かして自炊だ。部屋に戻り、皆さんと四方山話をしていると、雨音が聞こえる。夕立だ。これは山での定期便だ。床に横になっていると直ぐにうとうとする。廊下の電気が明るくて気にかかる。お手洗いで起きた折り電気の傘を上の梁に押し込んで床に戻る。

第2日目
岳沢ヒュッテ−−前穂高岳−−奥穂高岳−−穂高岳山荘−−涸沢岳−−北穂高岳南稜−−涸沢ヒュッテ(泊)

 4時50分起きる。昨夜と同じ場所で朝食だ。最近は起き出して直ぐに歩く。30分から1時間して、お腹が空いてから食べるのが一番なのだ。しかし、ここは水が自由に使えるので無理にでも食べた方が気持ちは楽だ。5時35分岳沢ヒュッテを出発する。朝は涼しくて歩きやすい。昨日の暑さが頭に浮かぶ。とにかく朝の内に距離を稼がなくてはならない。大きな石がごろごろする沢を渡るとテント場だ。朝は涼しくて気分がよい。調子よくどんどん登る。樹木もまばらとなりいよいよ岩場だ。鉄梯子だ。足を滑らせれば一巻の終わりだ。登りはともかくくだりはとにかく注意しなければ危険なところだ。一番事故が多いところでもある。岳沢ヒュッテのご主人がこのコースはくだりより登りにとってほしいと言っているそうだが宜なるかだ。(「山で死なないために」(武田文男著朝日新聞社))
 登り切って下を見るとTさんだ。追いつかれたようだ。足取りもぴった、ぴったと決まっておられる。体格もがっしりとしておられる。この後、Tさんと歩き出す。単独で来る人は何となく心細いせいかこういうふうに連れだって歩くのだ。この方が何かの時にはお互いに助け合うことが出来るのだ。ただあくまでも自分の判断で行動しなければならないことは言うまでもない。
 紀美子平だ。飛騨のガイドの今田重太郎さんがここにテントを張ってこの道を開かれたのだ。そんなことでこの道を重太郎新道と名付けられたのだが、ここは22歳で亡くなられて娘さんの名前を取って紀美子平と名付けられたとか。先着組が大勢いる。ザックが沢山置いてある。ここから空身で前穂高岳山頂を往復するのだ。ザックをデポして空身で山頂に向かう。空身となると足も軽い。サブザックは水筒と雨具とカメラだけだ。前穂高岳山頂だ。この山頂も意外と広い。上高地側は時々ガスが吹き払われて視界が開ける。明神岳をガスが吹き抜けて行く。しかし、残念ながら槍が岳から北穂高岳は見えない。涸沢も見えない。奥穂高岳は時々顔をのぞかせる。ガスの晴れ間をぬって写真を撮る。2,30分位山頂にいたであろうか。名残惜しいが山頂を後にする。紀美子平に戻る。ザックを回収して歩き出す。奥穂高岳への縦走路は吊尾根の少しに付けられている。やがて涸沢を見下ろす地点に出る。ここで一休みだ。ここからは涸沢カールが一望できる。ひと登りで奥穂高岳山頂だ。大勢の人が休憩している。しかし、風が強い。北側に回り込んで二人で食事だ。ガスが出てくる。山の天候は本当に変わりやすい。残念ながら下山だ。くだりは気を付けなければならない。この尾根はだまし尾根といって直進をすると危険なのだ。途中から尾根を離れなければならない。ガスや雪があればこの地点が分からず直進するとひどい目に遭うそうだ。この地点さえ注意すれば大丈夫だ。
 屋根が眼下に見える。奥穂高岳山荘だ。垂直な鉄梯子をくだると、また梯子である。ダリウス型の風車が勢いよく廻っている。屋根には太陽電池が見える。穂高岳山荘の前はテラスになっていて城壁の中のようだ。壁越に下を覗けばかなりの厚さの雪渓が広がっている。これが涸沢カールの源頭だ。 休憩も早々に涸沢岳に向かう。登り斜面は比較的緩やだ。涸沢岳山頂だ。くだりは狭い岩の間を鎖に助けられて急降下する。ザックが引っかかる。力を入れると前のめりになる感じだ。キスリングやフレームの背負子が危険なことは実感できる。時々足下の岩が崩れて落ちて行く箇所もある。ここが一番注意を要するところか。北穂高岳南稜だ。ここで最後の休憩だ。ここは前回休憩したところだ。ここまで来れば一安心だ。ほっとして高山さんと話が弾む。ひとしきり下ると涸沢小屋だ。散策をしている人達に声を掛けられる。岳沢から11時間30分歩いた旨を答えると驚かれる。さほど疲れているわけではない。Tさんも定年退職をして時折声が掛かり仕事をしているとかで、60歳を越えておられると思うがなかなかお元気だ。体格もがっしりしておられるし、足取りもぴったぴったと決まっておられる。広いテント場を横断して涸沢ヒュッテに向かう。夏山シーズンの幕開けとあり満員だ。寝場所は中二階のようなところで布団一枚に2人だ。暑くてとても寝れたものではない。こうなると寝るときは入り口のザックの置いてある床でシュラフカバーに入って寝る方がましだ。食事にはまだ時間がある。本館前の売店で高山さんと生ビールを飲む。この後、二人で食堂に行く。なかなか洒落た食堂だ。ご馳走だ。ご飯も軟らかいしいうことはない。だいたい山h小屋のご飯は硬いのが難点だ。圧力鍋で炊いているのだろうが気圧の関係でどうしても硬くなる。毛布を運んできて予定どうり入り口近くの自販機の前でシュラフカバーに入って寝る。電気が消えると自販機も止まり音も止む。やがて昼間の疲れで眠り込む。

第3日目
涸沢ヒュッテ−−上高地

 突然大きな音がして目が覚める。自販機に電気が入ったのだ。時計を見ると4時17分だ。昨夜は疲れで熟睡をしたようだ。丁度良い目覚ましだ。お天気が気に掛かり外に出てみる。時刻も時刻で薄暗いし、なにやら雨模様だ。雨が降っているわけではない。大丈夫だろう。お手洗いも行列だ。高山さんも起きてこられる。狭くて暑くて熟睡は出来なかったという。シュラフカバーで寝たのが正解だったようだ。2人で食堂に行く。食事も美味しいし、音楽が流れていてとにかく気分はよい。
 7時に涸沢ヒュッテを出発する。2人とも足が早いせいか本谷橋の手前で先行組に追いつく。このあたりから大渋滞となる。大勢の人が本谷橋の下で休憩している。2人でどんどん歩く。横尾だ。高山さんはここから蝶ケ岳、常念岳に登るという。北アルプスも今年が最後ではないかという。そんなことで蝶から常念に回ってみたという。たしかに年金生活に入られるとこういう遠くの山はそうたびたび来れるものではない。かくいう私も丹沢ばかりで北アルプスは高値の花である。勤めておられたのが鉄骨の会社とか言っておられたが、一生懸命に働いて定年を迎えられたのだ。ひと夏に2回も来れるだけ有り難いと思わなければならない。何とも名状し難い気分となる。ザックに入っていたオレンジ、ういろう、ステックのお茶やらの食糧を差し上げる。Tさんとここで別れる。(後日、Tさんからお葉書を頂戴する。常念岳は行かず、蝶ケ岳からおりられて松本市内を見物され無事帰宅されたそうだ。)今度は一人だ。どんどん歩く。やがて徳沢だ。小川で足を洗い汗をふく。冷たくていい気持ちだ。今日は帰るだけだ。のんびり上高地を歩こう。まず徳沢園に入ってコーヒーを飲む。正面の壁に「氷壁の宿徳沢園」と書かれている。井上靖の小説「氷壁」の舞台となったところだ。つぎは明神だ。ここから明神橋を渡って梓川の右岸の周遊路に出る。こんどは嘉門次小屋で蕎麦を食べる。観光客が多く大変な賑わいだ。この様子を見ることが出来ればウエストンを案内した嘉門次もさぞ驚いていることだろう。明神池をのぞいてみる。イワナがうようよしている。この後、重いザックを背負って遊歩道を歩く。ただ暑くてかなわない。ほとんどが軽装のハイキング客ばかりだ。カメラを手にした人が多い。確かに上高地は写真の対象には恵まれている。河童橋だ。いつものように大賑わいで人のいない河童端を写真に撮ることは不可能だ。とにかくどこかでシャワーでも浴びれればと小梨平キャンプ場に寄る。利用は5時からだそうだ。残念だ。ぶらぶらキャンプ場の中を散策してみる。この後、上高地バスセンターに戻り、バスの便を聞くと臨時便に空席があるという。汗もさほどかいたわけではないが着の身着のままで3日も過ごすと汽車では迷惑を掛けるかもしれない。助かった。臨時便の「さわやか信州号」で帰途につく。

戻る