山 紀 行
第1回北アルプス縦走(燕岳・大天井岳・常念岳・蝶ガ岳)
私の今年の夏山シーズンの幕開けは北アルプスだ。普段は丹沢、奥多摩で足腰を鍛え夏になると遠くの山域に出かける。これがここ二、三年の私の夏の行事だ。92年は八ヶ岳縦走(硫黄岳、横岳、赤岳、権現岳、編笠山)、八ヶ岳(赤岳、阿弥陀岳)、94年は甲斐駒ヶ岳、仙丈ヶ岳、白峰三山縦走(北岳、間ノ岳、農鳥岳)、富士山、瑞垣山、金峰山、95年は中央アルプス縦走(木曽駒ヶ岳、宝剣岳、空木岳)、富士山と歩いた。いよいよ北アルプスだ。しかし、いきなり槍だ、穂高だとは無理だ。まずは燕岳から大天井岳、常念岳、蝶ガ岳と歩き様子を見ようと言うわけだ。

7月19日

中房温泉登山口9:50−−−10:21第10:45一−−−11:09第二11:20−−−11:48第三12:00−−−12:29富士見12:40−−−1:18合戦小屋1:50−−−2:10合戦ノ頭2:15−−3:00燕山荘 

18日仕事で長野から上京した義兄の車に同乗して夕方5時下丸子を出る。高速道を利用して10時戸倉の義兄宅に到着する。翌19日7時30分義兄宅を出発する。中房温泉の登山口まで送ってもらう。狭い曲がりくねった道を走り抜けて9時30分到着だ。あたりはなにやら閑散としている。帰る車を見送った後、温泉を覗いてい見る。何人かがいるがすでに出発されたのであろう。旅館の玄関先もなにやら閑散としている。身支度をして売店横から歩き出す。この合戦尾根は北アルプス三大急登の一つといわれるている。しかし、歩きやすい道だ。さほど疲れは感じない。丹沢の大倉尾根で鍛えているせいか、初めての北アルプスで気張っているためか。程なく第一ベンチだ。若い人が下りてこられ、ザックを降ろして直ぐ水場に向かわれる。ここを少し下りたところに水場があるのだ。早速水筒の水を代えるべく水を汲みに下りる。話をすると私がこれから歩くコースを逆に歩かれてきたとのことだ。上は集団登山の中学生で一杯だそうだ。長野県の中学生は2年生になると山に登るのが慣例なのだ。夏休みにはいると間もなく数百人の中学生がアルプスだ、八ヶ岳だと登るのだから壮観だ。第二のベンチ、第三のベンチと順調に登って行く。集団登山の中学生が下山してくる。「こんにちは」と声をかけられて黙っているわけには行かない。中には頑張って下さいと声を掛けてくれる生徒さんもいる。とにかくこれは大変だ。退屈な登りだが、これも楽しみといえば楽しみだ。ただこう人が多ければ挨拶をするのも大変だ。この合戦尾根は北アルプスの三大急登の一つだそうだが、程良い間隔で休憩地点があり、おまけに中学生の集団と会うとなると気が張って疲れらただのといっておれない。順調に高度を稼ぐ。森林限界が近きことを感じさせる頃、次第に空模様がおかしくなる。遠くに雷の音が聞こえる。途中で休憩していた母娘の二人連れに空は明るいからまだ大丈夫ですよと希望的観測を話す。しかし、念のためカメラをビニールに包みザックにしまう。合戦小屋がもう少しという地点でポッツポッツと雨の模様だ。雨具をどうしようかと思案していると先程の母娘の二人が追い越して行く。空は明るいので、降ってもたいした降りではなかろうと思う。しかし、雨が降り出す。こうなるとやむを得ない。雨具を出して着る。たいした降りではない。少し登ると合戦小屋だ。ここから山荘までは1時間だ。ノンビリと雨宿りだ。小屋の横にはテントが張られている。時間も早いし、皆さんもんびりと休んでおられる。30分もすると雨が上がり。もう大丈夫とばかり、先頭を切って歩き出す。ひと登りで合戦尾根ノ頭だ。ここで雨具を脱ぎザックに仕舞っていると夫婦連れが登ってこられて写真のシャターを頼まれる。この後、登り出す。森林限界を抜け出たようだ。上には燕山荘が見える。こうなると思わず足が速くなる。登り切れば肩には残雪がある。しかもかなりの多さだ。時計を見れば時刻は3時だ。丁度いい時間に小屋に到着した。小屋の前の広場は先着した人達で一杯だ。中国語が賑やかに聞こえてくる。12、3人のお揃いの服を着た人達だ。夏のアルプスは全国区というより、外国人も多いのだ。「山と渓谷」、「岳人」の夏山特集号を見ると台湾や韓国からの登山者も多いようだ。受付を済ませる。指定された部屋は2階だ。寝台車の様な通路にカイコ棚が並び私の寝場所は2列目の上段だ。岡山から来られた若い人が休んでおられる。この後、大阪から来られた二人組、次いで埼玉から来られた人が到着される。今夜はこの5人が一緒だ。ひとわたりそれぞれの登山口や明日のコースの予定などの話だ。夕食まですることもないので雨具と水筒を持って燕岳に向かう。もう雨の降る心配はないのだが大阪から来た年輩の人に雨具は持っていった方が良いとの助言を頂く。サブザックを用意していないので上だけ雨具を羽織る。ポッケトには小さな水筒を入れる。次の山行はサブザックに雨具を入れてくる必要があることを痛感する。皆さんも空身で山頂に向かう。花崗岩のザレた斜面をゾロゾロ連なって歩く。途中、先程の中国人の一人がハーモニカを吹きながらこちらに向かってこられる。聞いたことのある曲だ。なんと「青い山脈」だ。 燕岳の山頂だ。南には燕山荘が見える。南東には槍ケ岳が見える。成る程、人気のあるわけだ。独特の形をした花崗岩の岩塊が起立をして一服の絵をなしている。山頂でひとしきり感慨にふける。遠い世界と考えていた北アルプスに登れたのだ。やがて同宿の人たちが3,4人登ってこられる。一組のご夫婦の話が耳に入る。ご主人はここに残り奥さんは北燕岳に向かうとか話されている。北燕岳は指呼の間だ。ここまで来て引き返すのも惜しい話だ。東の斜面にはコマクサが咲いているとの情報でみなさんと一緒に北燕岳に向かう。コマクサというのは女性登山者の間では大変な人気だ。 小屋に戻ると、大勢の中学生が小屋の前に集まり、代表がなにやら読み上げている。登る最中に会った学校とは別の学校のようだ。この後、オ−ナ−の赤沼健至さんが挨拶をされる。皆さんにお願いとのことで、登山道以外は入らない、雪は食べないで下さい等々話される。中学生達は裏の別館に泊まるようだ。やれやれだ。それにしても相当なる収容能力があるようだ。東京の山の店で燕山荘のパンフッレトを見かけるが現地に来て見れば成る程と納得だ。中学生達の食事は5時半からだ。一般は6時30分食事だ。カイコ棚の2階に戻り夕食まで時間をつぶす。やがて食事ですとの案内があり、食堂に行く。偶然隣の女性は登りであった母娘の女性だ。横の売店を覗き込んで皆さんに話される。娘さんが横の売店で今日から1ヶ月ここでアルバイトだそうだ。 食事の後、小屋のオーナーの赤沼健至さんがスイスホルンを演奏される。その後、小屋の歴史を話される。小屋は大正10年7月に赤沼千尋により80u50人収容の「燕の小屋」として建設され、昭和3年に現在の燕山荘と改名されたそうだ。この小屋は赤沼千尋、惇夫、健至と三代にわたり守り育てられてきた歴史のある北アルプスでも屈指の山小屋だ。また山歩きの注意として小屋に着いたら体を慣らすために1時間は散策をしてくださいとのことだ。高山病の予防に有効な方法とのことだ。また、水をこまめに飲んで水分を補給するのはもとより、その間に梅干しを食べるのも疲労の回復になるという話は初耳で役に立ちそうだ。どこの小屋でも皆さん到着すれば疲労困憊の体で一寝入りしているが、これがかえって良くないと言うのだ。山小屋でこんなにおいしい食事は初めてだ。オーナーの演奏といい、話といい、感心するばかりだ。この後、コーヒーでもと思ったが、喫茶室は意外と早く終了するようだ。食事の後はする事もないのでカイコ棚に戻り布団に潜り込む。人息で暑くてなかなか寝付かれないが、昼間の疲れでやがて寝入る。

7月20日

燕山荘−−大天井岳−−常念小屋(泊)

物音で目を覚ます。時計を見ると4時20分だ。日ノ出を見ようと小屋の前はカメラを持った人達で一杯だ。燕岳に向かう人達も多い。眼下には雲海が拡がる。南東の方には富士山が雲海に浮かんでいる。やがて太陽が昇り出す。あちらこちらか歓声が上がる。燕岳、槍ヶ岳、立山連峰が朝日を浴びて見事だ。とりわけ刻々と朝日に照らされる槍ケ岳はひときわ光彩を放っている。7,8枚写真に撮る。5時食事だ。食堂にはいると朝日がまぶしい。食事の後、出発前に喫茶室で一人コ−ヒーを飲む。出発の人で賑やかな玄関を後にして歩き出す。南西に槍、穂高の稜線を今日一日を見て歩くのだ。天気も良いし気持ちのよい縦走だ。途中の斜面で一人年輩の人がカメラのフイルムを入れ替えておられる。思わずフイルムが何本有っても足りませんねと声を掛ける。ニコニコして黙っておられる。一瞬おやっと思う。昨日会った中国人の一行の一人だ。この先に一人待っておられる。先発はどんどん進んでおられる。中国の方ですか、と声を掛けると台湾ですと答えられる。「青い山脈」といい、何人かの人は日本語もわかるようだ。切り通しに下りる。ここの岩の壁に、槍ケ岳まで続くこの喜作新道を開いた小林喜作のレリーフが埋め込まれている。ここを右に行けば槍だ。左に登って行けば大天井岳だ。次第にガスが西から覆いだす。山の天気は本当に変わりやすいことを実感する。岩がごろごろした斜面を登り、大天井荘の小屋の前のベンチにザックを置いて山頂に向かう。岩がごろごろした稜線を少し登ると山頂だ。 窪地にはかなりの雪が残っている。大天井岳の山頂で槍を背景に写真を撮ってもらう。次第に槍が見えなくなる。あっという間に槍の穂先が見えなくなる。この稜線も西側はガスに覆われる。ベンチに戻るとあたりはガスに覆われて視界が利かない。急いで出発だ。人影もないし思わず足が速くなる。東側に出るとガスが少し切れている。猫のような声が聞こえる。雷鳥だ。ヒナがハイマツの上を泳ぐように歩いている。あわてて写真を撮るが28ミリではどう写るのであろうか。雪渓だ。量の多さに驚く。冬の積雪は相当なものだろう。この斜面は昨年の豪雨で崩壊したようで登山道が付け替えられている。ハイマツをきりひらた斜面を新しい道を下る。ハイマツの根で歩き難い。  次第にガスがかかり視界が利かなくなる。雨の気配だ。思わず足が速くなる。下に小屋の屋根が見える。常念小屋だ。樹林帯を抜けると常念乗越だ。あたりは石がごろごろして河原のようだ。人でごったかえしている小屋に入り受付を済ませる。今日は込んでいますので布団1枚に2人ですとのことだ。小屋のオーナー山田さんのお孫さんが部屋まで案内をしてくれる。小学2年生だそうだ。きっと立派な4代目の主になるのだろう。案内された部屋は六畳だが、入口に定員14人と書かれた紙が貼られている。今のところ2組、東京3人組、大阪2組、単独3人の10人だ。皆さんで四方山話だ。佐久から来られた人の話では何度か泊まられているそうだがこんなに込むのは珍しいとのことだ。しばらくすると雨が降り出す。夜の内に雨が降れば明日は晴れるのではないだろうか。そんな虫の良いことを考える。食堂の壁に写真が架けられている。松本から見た常念岳だ。三角錐の堂々たる山容だ。とりわけ松本から見える雪を抱いた常念は立派だ。 

7月21日

常念小屋5:50−−常念岳−−10:00蝶ケ岳−−徳沢園−−2:40上高地==新宿 

大きないびきで目が覚める。時計を見ると2時20分だ。なにやら同室の人達は眠れぬ様子で皆さん目を覚まされている。こんな経験は珍しい。とにかくすさまじいいびきだ。佐久から来られた人が、「充分寝たのだから起きていなさい」と声をあらげられる。この後、またうとうとする。4時30分起きると皆さん起きておられる。お手洗いに行き洗面所で顔を洗い部屋に戻るともう食事の声がかかる。鼾の人は早々に部屋を出られたようだ。 第一陣は5時だ。起き抜けでは食欲がない。それでも食べなければと食堂に行く。5時50分小屋を出る。北側から大きな岩石がごろごろする緩やかな斜面をゆっくりゆっくり登って行く。ガスが東から西に吹き抜けて行く。見通しは利かない。おまけに風は冷たく寒い。黙々と登る。3時頃空身で登った人達であろうか、下りてくる人達とすれ違い出す。肩に出る。やがて南西にのびる稜線を辿る。緩やかな登りだ。常念岳山頂だ。とたんに賑やかになる。しかし展望は利かない。昨年の空木岳山頂と同様だ。思い入れがあるほど思いが叶わないようだ。 深田久弥の「日本百名山」を読んでいて、常念岳の冒頭の書き出しに目が止まる。 「評論家臼井吉見氏が書いていた。松本の氏の小学校の校長はいつも窓から外を指して「常念を見よ」と言ったが、その言葉だけが今も強く記憶に残っている、と。」 これが深田久弥の[日本百名山]の常念岳の章の書き出しだ。どんな意味を込めて校長は「常念を見よ」と言ったのであろうか。松本平から見る秀麗な常念岳に信州人としての誇りを矜持せよとの寓意を込められたのであろうか。この冒頭の書き出しに、恩師の一言が重なる。しかもその言葉が折に思い出されるのだ。というのは高校に入学したとき入学式が終わり教室に戻り担任の河合徳舜先生の話があった。なにせ40年前のことで話の前後の記憶はないが、先生が「僕は現代に親鸞いでよと言いたい」といわれた。何故かこの一言が何時も心に残っている。おまけにこの2年後に父が亡くなりお葬式で聞いた蓮如上人の「白骨の文」がしみじみと心にしみた。お文はいう。「夫(それ)、人間の浮生なる...たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。」と。人間は死を避けることができない。それ故に充実した生を生き抜かなければならない。学生時代、マックスウエーバ−を読んで随分キリスト教(プロテスタント)に惹かれた。しかし、父の死以来の心の内の何かが、待てと言っているように感じた。そんなことがあってキリスト教には踏み切れなかった。とにかくそんなことがあって山頂でいささかの感慨を覚えた。 今日の行程も長い。残念だが仕方がない。ガスの中を南に下る。下り始めてすぐに東側から鳴き声が聞こえる。雷鳥だ。ハイマツをのぞき込むが姿は見えない。残念だ。西側に下ると先行する人達が立ち止まっている。雷鳥だ。いるいる。親鳥とヒナが斜面のハイマツの上に見える。やがて見えなくなる。人の気配を察してハイマツの中に潜り込んだようだ。8時最低鞍部に到着する。ここから登りだ。登り切れば大勢の人が休憩している。疲れておるわけではないのでどんどん歩く。小さなピークを越えると今度は樹林帯だ。開けた草地には名前の知らない知らない黄色い花が咲いている。なんとかいうユリがあるとかで女性達が集まり賑やかだ。この分野はとんと不案内で恥ずかしい。樹林帯を抜け出て少し登ると森林限界を超える。ここから蝶ガ岳だ。相変わらずガスで見通しは利かない。登り切ると山頂か。岩の陰で二人休憩しておられる。時間も早いし、ここで小休止だ。10時ここから南に稜線を歩く。あいかわらずガスに巻かれて展望どころか前を歩く人の姿がかすかに見えるだけだ。やがて霧に中に4、5人立っておられる、三角点があり、ここが山頂のようだ。先ほど登り切ったところからは大した起伏はない。ここから少し歩くとガスの中に横尾の標識を見る。この後、緩やかな起伏を下ると突然小屋が見える。蝶ケ岳ユッテだ。小屋の前のベンチにザックを下ろすと不意に「早いですね」と声をかけられる。常念小屋で同宿の佐久から来られた人だ。小屋に入り巧子に電話をする。この後、ベンチに戻る。30代の人がカメラを数台用意してガスがあがるのを待っておられる。ひとしきり写真の話だ。ガスがあがればここは槍から穂高にかけての絶好の展望台だそうだが残念だ。こうなるとあきらめて出発するしかない。ヒユッテから少し下ったところに池があるが大きな雪渓に覆われている。長塀尾根を下る。下りとなると早いものだ。どんどん休みもなく下る。空を見上げればすっかり夏空だ。ふっと山頂での展望が気にかかる。未練か。松本営林署の標識が見える。気が付くと林床はササだ。こうなると徳沢は近そうだ。やがて木の枝の間から屋根がみえだす。徳沢だ。徳沢園によりここで一息入れる。辺りは公園のようだ。さすが上高地だ。前の原っぱには沢山の揃いのテントが見える。梓川沿いに歩く。右手に明神ケ岳が大きな山容を見せる。行き会うのは登山者と観光客だ。本当はゆっくりして景色でも楽しみたいとところだが時間が気にかかりとにかく急いでしまう。それにしてもザックを背負い登山靴で歩いているとなんだか都会の公園の中を歩いているようで落ち着かない。河童橋は大変な人だ。今日は早々に通過だ。上高地バスセンターだ。2時45分だ。新宿行きの直通バスが3時15分発だ。聞いてみると席がありそうだ。直ぐに並んで下さいとのことだ。今日は3台出るそうだ。車中ではよく歩いたものだと満足感で一杯だ。来年こそは槍と穂高だ。


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