山 紀 行  八ヶ岳(赤岳&阿弥陀岳)

下丸子=新宿=茅野=美濃戸口−−美濃戸−−行者小屋−−地蔵尾根−−赤岳天望荘−−赤岳−−阿弥陀岳−−御柱山−−美濃戸口=茅野=新宿=下丸子

「赤岳(2899b) 八ヶ岳の最高峰。山肌が赤褐色をしているためにその名がある。山頂は南北に分かれ、南峰に一等三角点がある。山梨県側に県界尾根、真教寺尾根を出す。西側の岩場は西壁と呼ばれ、東側は大門沢奥壁として、赤岳沢など岩登りの対象となっている。南の権現岳との間に標高差400bのキレットがある。」(三省堂「日本山名辞典」)
「阿弥陀岳(2805b) 長野県諏訪郡原村と茅野市の境。中央本線茅野駅の東19q。 八ヶ岳の主峰赤岳西側にある。山岳信仰から山頂には石碑が多い。急峻な南稜は高度の登はん技術を要する。」(三省堂「日本山名辞典」)

山に登る楽しみに山座同定という分野がある。山座同定とは、「あの山はなんとういう山かということを当てる」ことをいう。これはなかなか容易ではない。大体、山の頂は幾重にも連なっている。これが日本の山の特徴でもある。この点、南八ヶ岳は特徴のある独立峰の様相をていしており、山座同定は容易である。行者小屋から見上げると硫黄岳、横岳(大同心、小同心等)、赤岳、中岳、阿弥陀岳と、特徴のある山容を見せている。7、8、9日に登り残した阿弥陀岳に今日は登ろうと言うわけだ。 9月は1日から4日まで事務所のハワイ旅行だ。9月は天候が不順なので、8月中にもう一度八ヶ岳の阿弥陀岳に登りたいと言うわけだ。しかし、今村君より出先から電話あり、旅行前でやめると言う。皆さんに止められたようだ。こちらは諦めきれない。帰宅後7時突然山行を決める。新宿駅に11時10分に着いて驚く。ホームには大勢の登山者が座り込んで順番を待っている。座れるのだろうか不安になる。席がなければ通路にでも座るほかあるまいと思い、通路に敷く新聞を買い求める。40分列車が入線する。先を争って乗り込む。なんとか席が確保できた。座れた余裕か、辺りを見て改めて驚く。登山者は学生のグループ、社会人のグループ、中高年と様々だ。遅く帰るサラリーマンも多い。だいたい高尾か上野原辺りで下りる。前に座った若い男女の二人連れはどこまで行くのだろうか。2時40分甲府に到着だ。前の学生風の二人連れ下車する。かなりの登山者が下車する。6人組が下車する。タクシーで広河原行か南アルプスに登るのか空いた席に移り横になる。新宿で酒を飲んでいた学生のグループ静かになったと思ったら通路に新聞を敷いて寝ている。終電車が出た後の駅が工事中かコンクリートを壊す削岩機の音がうるさい。ホームに出たり、列車に乗り込んだりで賑やかだ。4時松本に向けて発車する。やっとこの時分になると車内はかなりの人が寝始める。静かになる。小淵沢駅で25分停車だ。空が明るくなる。ホームに出てジュースを飲む人、顔を洗う人、通路で寝込んでいる人様々だ。 茅野に到着。バス停はみるみる間に人で長い列ができる。座れるか心配になるが全員座れたようだ。茅野で下りない連中は松本から、穂高方面か。夜明けの町を順調に走り美濃戸口に到着する。水を水筒に詰め、登山届を出して林道を歩き始める。美濃戸に着く。小松山荘を通り越し、いちばん奥の美濃戸山荘まで歩く。沢山の先行組が休憩中だ。小屋の入り口にいろいろな食事のメニューが張り出されている。いよいよここから山道だ。学生の男女4人組が追い越して行く。途中で幼稚園児か、幼い子供二人を連れた夫婦を追い越す。道は沢沿いにあり、しっかりしている。広い河原に出る。ここを少し歩くと正面に横岳が大きく見える。行者小屋に到着する。想像していた以上に大きな綺麗な小屋だ。小屋の前の冷たい水で喉を潤す。小屋から少し上の木陰で食事だ。ゆっくり休んで、いよいよ地蔵尾根から赤岳を目指す。最初は順調に登るが、後半は鎖場の連続だ。ここを上がると地蔵を祭った分岐に出る。ここから赤岳岩室は目と鼻の先だ。この赤岳岩室は古い歴史のある小屋のようだ。 「日本で登山目的の山小屋ができはじめましたのは大正時代になってからで、1912年に八ヶ岳に赤岳岩室が、1916年に白馬大雪渓の下に白馬尻小屋が、よく1917年に槍沢に殺生小屋が建てられました。」(式 正英「自然の博物誌<山>」 ただし今は赤岳天望荘と名前を代えている。残念に思う。こんな歴史ある名前を簡単に代えるとは本当に残念に思う。ここでジュースを飲み小休止だ。7、8人の学生のグループが休憩中だ。缶ビールを飲んでいる。大丈夫なのだろうか。アルコールは下山するにしても、登るにしても問題だと思う。ここで宿泊するならば、危険は無いのであろう。油断大敵だと思う。いよいよ赤岳に登る。前回は霧で何も見えずに登ったが今回は周りを見ながら登って行く。展望は最高だ。頂上だ。時間は1時30分だ。美濃戸口まで下山して出来ない時間ではないがとにかく今日は泊まりだ。小屋で宿泊の手続きを済ませ南峰にある祠まで行く。ここで周りを眺める。阿弥陀岳が眼前にある。とにかく気分よし。阿弥陀岳側の斜面に花束が投げられている。事故でもあったのかも知れない。清里側に回りスコープで覗いてみる。倍率が低いせいかあまりよく見えないが、尾根筋だけははっきり見える。これが真教寺尾根か。2時間近く遅れて南沢で追い越した幼い子供を二人連れた夫婦がやって来る。写真を撮るようだ。よくやったと思う。幼稚園児位の子供だ。よくみると耳が不自由のようだ。よく頑張ったね、と声を掛けてあげる。こちらも興奮気味にあたりを歩き回る。北峰の頂上で飽きずに周りを眺める。足元に鳥が来て登山者の残した食事の残り物かをついばんでいる。そんなことがきっかけで隣のAさんと話をする。茅野の人だそうだ。山に登り写真を撮るのが趣味だという。マミヤの6×6判の写真機を持ってきているそうだ。三脚やらで可なりの重さだと言う。今夜は赤岳頂上小屋に同宿だ。登山者が多そうだ。こちらは素泊まりでザックの中の食料を食べる。部屋も全員外に出されもう一度詰め直しされる。談話室でコップ酒を買い求め二人で飲む。このせいか部屋が込んでいる割にはすんなり寝てしまう。 翌朝は例により皆さん早起きだ。小屋の外で寒い中を日ノ出を待っている。こちらは横着にも小屋なの窓から太陽が昇るのを待つ。雲海の中から太陽が昇って來る。5時14分だ。身支度をして小屋の外に出る。外でお湯を沸かしスープをのむ。フランスパンは一切れしかない。蜂蜜をぬり食べる。残り物の堅くなった大福を食べる。南峰に行くとAさんが写真を取っている。北アルプス、乗鞍、木曽御岳、中央アルプス、南アルプス、富士山がよく見える。みんなで山座同定中だ。ここからAさんと一緒に出発だ。南峰を下る。途中で行者小屋からの登山の若い人に会う。「富士山が見えますか」と聞かれる。ここからでは見えない。 中岳で遭難の碑をみる。「平成元年2月24日関根聖子中岳沢左股に眠る」とある。夏山であれば死ぬようなことあるまいと思うが、冬山は本当に恐ろしい。阿弥陀岳は見上げるような急登だ。阿弥陀岳の頂上を往復する登山者はザックをここに置き空身で登る様だ。さあ、登りはじめる。最初は順調だが、後半は喉が乾ききつい。Aさんにすこし遅れる。やっと頂上だ。頂上でAさんに写真を数枚撮って貰う。西天狗岳、東天狗岳、硫黄岳、横岳、赤岳、権現岳、編笠山、西岳が勢ぞろいだ。40分近く休憩して景色を楽しむ。ここでAさんと別れる。Aさんは行者小屋から美濃戸、美濃戸口だ。12時前後に美濃戸口で再会を約して出発だ。はじめての道なので緊張気味に御小屋尾根を下る。最初の梯子を登り岩の上に出る。眺望すこぶる良い。西面は遮るものなし。ここから少し下ると遥か下に赤いザックを背負った人の姿がチラッと見える。右手には美濃戸の三軒の山荘の屋根が見える。登って來る登山者の姿も見える。この道に間違い無しと安心する。最初の登山者に会う。ついで母娘の親子の二人連れだ。休憩中の親子連れを追い越す。バテ気味で小休止する。先ほどの親子連れが追い抜いて行く。不動清水が見あたらない。茸とりの人に尋ねるも知らないと言う。沢に下るところか。今度は緩やかな登りだ。少し登ると分岐だ。右は御小屋尾根北尾根、美濃戸の標識がある。このあたりからアカマツとカラマツの混交林だ。長い下りだ。老人夫婦の登山者に会う。ここから阿弥陀岳か。まもなく別荘地に出る。道が分からない。別荘の横で野菜を洗っている地元の婦人に道を尋ねる。突き当りが車道で、美濃戸のバス停は少し上に歩いたところだと言う。ここからすこし歩くと美濃戸口に戻る。冷たい水で顔を洗い、汗を拭う。八ヶ岳山荘で牛乳を飲みひと休みだ。40分位待ったか。Aさんが車で下りて来る。新しい三菱パジェロだ。茅野駅まで送ってもらう。駅で別れる。12時55分の甲府行の普通列車に乗り込む。車内は冷房がなく扇風機だけだ。とにかく暑い。14時甲府に到着する。ここで14時35分発の立川行に乗り換える。ホームは特急を待つ客で一杯だ。特急の自由席は窓からみると通路まで人で一杯だ。急ぐ旅ではないし時間はかかるが普通で行く。冷房が利いていてやれやれだ。立川に到着する。ホームは人で一杯だ。乗り換えて新宿に到着する。

朝日新聞日曜版(1992/11/6)の「旅・人・こころ...八ヶ岳」を読んでいたら次の文章が目にとまる。

 「東京から近くて、アルペン的な雰囲気を手軽に楽しめる山と言えば、八ヶ岳。四季を通じて様々なコースを登ったが、期待を裏切られたことはこれまで、一度もなかった。....夕食後、同宿の登山者数人とともに、小屋の主人、尾形清さんを囲んで、消灯まで話し込んだ。尾形さんの話では「登山者のマナーは以前に比べ、格段によくなった」そうだ。高山植物の盗採が影をひそめ、ゴミ持ち帰りが普及した。「残念なのは毎年、数件繰り返される遭難事故だ。」この夏は、山頂に寝袋を持ち出して眠っていた酔っぱらい登山者が、夜中に谷へ転落して即死する、常識では考えらられない事故が起きた。「山のルールはちゃんと守ってもらわなくちゃ....」と、尾形さんは一瞬けわしい顔付きをした。...」 そうするとあの斜面に投ぜられた花束はこの死者を悼むための花束であったのだ。山小屋の混雑を嫌い、寝苦しい夜を涼しい外で休んだものであろう。わからぬものでもないがやはり不用意であったことは間違いあるまい。



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