山 紀 行
南八ヶ岳縦走(硫黄岳、横岳、赤岳、権現岳、編笠山)

下丸子=新宿=茅野=美濃戸口−−美濃戸−−赤岳鉱泉−−硫黄岳−−横岳−−赤岳−−権現岳−−編笠山−−観音平(グリーンロッジ)=小淵沢=新宿=下丸子

いよいよ念願の南八ヶ岳縦走だ。昨年の夏は雲取山に登る。それがきっかけで山登りを始め、本当に1年間よく登ったものだと思う。今回は31回目の山行で、「山と渓谷」、「岳人」で、思いを募らせてきた、八ヶ岳だ。新宿駅は夏休みの行楽客で一杯だ。山行の登山客も多い。7:00発特急あずさ1号に乗り込み、発車してほどなく駅弁を食べる。中央線の山並を眺める。9:16あっという間に茅野に到着だ。駅前のバス停には登山者が並んでいる。バスの発着場所がショッピングセンターだ。開店は10時とかで閑散としている。バスの発車時刻は10時なので時間は充分ある。フランスパンを買うつもりで町に出てパン屋を探す。見つからないのでやむを得ずコンビニでありきたりのパンを買う。 美濃戸行のバスに乗る。乗客は登山客とテニスラッケトを持った人が大半だ。原村ペンションでテニスをする人が数組下りる。ほどなく美濃戸口に到着する。左手に登山口があり、登山口の右手には登山者補導所小屋がある。ワープロで用意した登山届を出す。ここで身支度をしてゆっくりと歩き出す。1時間近くで美濃戸に到着する。小松山荘の前のベンチで休憩する。雨がパラツクがすぐに止む。大勢の軽装の生徒が山荘の前で三々五々、屯している。遠足にきた地元の中学生か。ここから少し歩くと分岐だ。左手の北沢を行くと赤岳鉱泉だ。右手の南沢を行くと行者小屋だ。予定通り北沢を歩き出す。勾配は緩やかで林の中を沢沿いに歩く。何度か丸太の橋を渡る。2時間近くで赤岳鉱泉に到着する。受付を済ませる。個室は1室2000円だ。夕方、「大同心が見える」という声がする。出てみると上の方に石仏とみえる独特な岩峰が見える。これが大同心だ。左が小同心だ。本当に祈るような姿に見えてくる。あっという間に雲の中に隠れる。夏と言うのに2000メートルの高度があると寒ささえ感じる。短パンではとてもいられない。水の冷たさも格別だ。部屋の中で小豆の缶を開け、お餅を入れてお汁粉をつくる。パンに缶詰めを開けての簡単な夕食だ。水が冷たく食器を洗うのも容易ではない。食事のあとお風呂に入る。鉱泉だから沸かし湯だ。風呂場には石鹸もないし、本当に行水だ。しかし、汗をかいた後だからいい気分だ。 翌日は5時頃起き出す。正之が文句を言う。「お父さんは鼾をするし、寝相は悪いし、人の毛布は取るはで最低だ。」寝相が悪いのは自分でも分かるが、鼾をするとは自分なりに意外だ。疲れていたのかも知れない。朝食を済ませて45分に出発だ。順調に歩き出す。途中から正之が一人で先を行く。苔の生えた林床が美しい。登るにつれて赤岳、中岳、阿弥陀岳が木々の間から姿を表わす。右手には雲海に浮かぶ山並が望見される。北アルプスか。息は切れるし、正之に遅れまいとして少々バテ気味になる。一人しばし休憩する。段々森林限界に近づいてきた感じだ。上で正之が待つている。ここからは硫黄岳が見える。硫黄岳のなだらかな稜線にアリのように登山者の姿が見える。ケルンが何基も並んでいる。もっとも最初これがケルンだとは気がつかず、幾つか稜線に並んでいるのが不思議であったが。赤岩ノ頭に到着する。この辺りから足どりが軽くなる。登るにつれて雲海が下に広がる。先ほどのバテがウソのようだ。休み無しにどんどん登る。硫黄岳山頂だ。 「硫黄岳(2765b) 南八ヶ岳の一峰で夏沢峠の南にある。佐久側に爆裂火口がある。山頂は平坦で、なだらかな山容であるが、北東面は火山壁の絶壁となって特異な様相を呈している。」(三省堂「日本山名辞典」) 岩がゴロゴロした広い山頂だ。爆裂火口が大きな口を開けている。恐る恐るのぞき込む。火口壁の反対側は赤岳、中岳、阿弥陀岳が眼前に見える。右手の雲の上には北アルプスの山並が見える。夏沢峠の方向には雲海が眼下に広がって見える。小さな木の小屋がある。大きい頑丈な犬小屋の趣だ。人が二人かがんでやっと入れるくらいだ。冬山での危急時の避難小屋か。この屋根にザックを置き、しばし休憩する。写真も充分写したし出発だ。大きな石ころだらけで、歩きにくい。ここから下ると大きなタルミだ。この鞍部に硫黄岳山荘の屋根が見える。大きな石ころの道を下ると山荘に到着する。山荘の入口に浩宮殿下が来られたとかで次ぎのような石碑が置かれている。これは小屋の主人の勲章だ。

 「浩宮殿下八ヶ岳御登山 和61年8月27日28日  御宿泊 27日  硫黄岳山荘 御案内 浦野栄作」

山荘に立ち寄り、桃缶(600円)を買い、食べる。疲れにはこれが一番だ。 ガイドブック「八ヶ岳を歩く」に掲載されている写真の小屋の主人浦野栄作氏が小屋の前の跡片付けをしている。温厚そうな感じの人。べたつく手を洗うために水をもらう。ここの水は天水で、タンクは10日分水を蓄えてあるそうだ。水をほんの少々頂く。山荘の横に硫黄岳高山植物園の標識がある。植物園とはいっても山のタルミの高山植物を保護する区域のようだ。 

「硫黄岳高山植物園  この植物園には、めずらしいシロバナコマクサなど八ヶ岳に生育する数多くの植物が見られ、周辺のキバナシャクナゲ群生地は特別天然記念物に指定されています。 植物園内の主な花 コマクサ、キバナシャクナゲ、ウルップソウ、イワウメ、チョウノスケソウ、クロユリ、オヤマノエンドウ、トウヤクリンドウ、コケモモ、ミヤマシオガマ・・・・・など 日本の緑 国有林 臼田営林署」 

小休止の後、歩き出すとすぐに正之がカモシカを見つける。すぐ近くの道の下からこちらを見上げている。あわてて写真機を取り出すももうかなり先を歩いている。横岳から下りて来る、家族連れの登山者に教えてあげる。小学生の男の子、あわてて双眼鏡で覗く。この距離では望遠レンズでなければ写真は無理だ。ここの登山道の両端は高山植物が色とりどりだ。ロープで保護をしている。さあ、いよいよ登りだ。ガレ場だ。この稜線の最初の岩場になる。振り返ると硫黄岳山荘が小さく見える。山荘のある辺りが緩やかな斜面となっている。 母子のEさんに出会う。小学生の娘さんが、「恐いよ、恐いよ」と言いながら岩場を越えて行く。頼まれるのでもなければ手助けをするわけにも行くまい。人はそれぞれの生き方があるのだろう。母と子が二人で自分の判断で山を歩くのだ。この岩場をと、気にはかかるが、正之と二人でどんどん進む。鎖場や梯子を乗り越えて行くと横岳山頂だ。 「横岳(2829b) 南北に長い頂上部に二十三夜峰、日ノ岳、鉾岳、石尊岳、三沢峰、主峰などのピークがある。西側は大同心・小同心をはじめとする横岳西壁と呼ばれる岩場となっている。西麓に赤岳鉱泉がある。」(三省堂「日本山名辞典」) 眼下に赤岳鉱泉の赤い屋根が小さく見える。大同心や小同心を裏側からみることになるが、昨日見た感じはない。下からみた祈るような大同心は心に焼き付いた感じだ。三叉峰で休憩、下に伸びる杣添尾根を眺める。清里か、野辺山か。先生に引率された中学生の一団がやって来る。鉾岳、日ノ岳、二十三夜峰と岩場の連続だ。ここからときおり見える赤岳は圧巻だ。左手から霧が出て来る。赤岳の稜線を覆い出す。赤岳を少しの間だけでもこの方向から見ただけで満足だ。本当に山の天気は変わり易い。 「..天気のいい日にこの山に上って、それでも尚山が好きになれなかったら、それはよほどの頑固者か神に見放された人かであろう。」(深田久弥「わが山々」) 霧がどんどん湧いて来る。赤岳岩室に到着だ。赤岳岩室の小屋の食堂でラーメンを食べる。出発の頃、雨さえ降り出す気配だ。しかしたいした雨ではない。2組の親子連れと情報を交換する。そこにEさん母子が到着だ。身支度をして出発だ。外はガスで見えない。しかし風はない。かなりの急登だ。鎖場もある。1時間くらいで赤岳頂上(北峰)に到着する。 「赤岳(2899b) 八ヶ岳の最高峰。山肌が赤褐色をしているためにその名がある。山頂は南北に分かれ、南峰に一等三角点がある。山梨県側に県界尾根、真教寺尾根を出す。 西側の岩場は西壁と呼ばれ、東側は大門沢奥壁として、赤岳沢など岩登りの対象となっている。南の権現岳との間に標高差400bのキレットがある。」 (三省堂「日本山名辞典」) 頂上は霧で何も見えない。雨がないのが救いだ。頂上の肩にある頂上小屋で受付を済ませる。宿泊客は60人前後とのことだ。熊本の岩見さん、ベテランのAさん、Bさん、小金井の印刷屋のCさん、名古屋のDさん、アメリカ人のNさん、女の人を中心とした20人近くのパアーティMグループだ。 部屋の隅で携帯無線機で交信をしている人がいる。今日は土曜日だし、博さん(義弟)も今ごろ交信をしているのではないかと思い声をかける。コールサインが分かればというので、さっそく談話室2Fの公衆無線電話で東京に電話をする。博さんのコールサインはJA1−BONだそうだ。こちらは熊本の岩見さん、コールサインはJI6−UZCだ。なんども呼び出すもこちらの出力が弱く無理のようだ。こんなことから、熊本の岩見さん(60才前後か)と知り合う。浩宮殿下の記念碑の話をすると、殿下はお忍びで100名山中もう50近くも登られたそうだ。殿下はご自分の荷物は自分で背負われるそうだ。日本山岳会の名誉会員で、いい会員番号をもらったという。窓からみると、雨まじりの風がだんだんと強くなる。Eさん母子が到着だ。驚きだ。談話室ではMグループが明日の下山路を真教寺尾根か県界尾根で、話をしている。Cさんが県界尾根を降りることを勧めている。赤岳の直下50メートル位が危険だそうだ。雨や風の場合はなおさらだそうだ。しかし、「命を賭けて降りる」なんて、息卷いている。ガスで遠くが見えない分神経が集中できるなんて言っている。こちらで、AさんやBさんが「八ヶ岳なんて命を賭ける山ではない」と言っている。同感だ。こちらに来たCさんと話をする。かなりのベテランのようだ。西沢渓谷の鎖場で落ちて死んだ人の話をする。奥さんが「お父さん、お父さん」と、必死に叫んでいたそうだ。Nさんはアリゾナ州出身で5年前に来日、沖電気八王子工場で英語を教えているそうだ。普段は高尾山等奥多摩の低山を登っているそうだ。金峰山も登ったという。とても物静かなシャイな人物だ。 夕食は岩見さん、Cさんと一緒の席で取る。岩見さんの食欲には驚く。正之が最低2杯は食べなくては駄目だと注意されている。こちらは2杯がやっとだ。 夜、風が強くなる。屋根のトタンがバタバタ一晩中大きな音がする。この音でなかなか寝つかれない。台風が九州を通り抜けて、日本海を北上している様子だ。 翌朝まだ風も雨も激しい。10時止む気配無し。遅くとも11時までに止まなければ行者小屋か美濃戸山荘に1泊となろう。11時、停滞を決意する。熊本の岩見さんにその旨を話すと、喜んでくれる。山は楽しく登らなければなりません、と言う。明日は必ず晴れます、とも言う。一度出て行くも、風が強く体が飛ばされそうだとかで、また戻って来るグループもいる。いつの間にかEさん母子出発している。大丈夫なのだろうか。Mグループも出発のようだ。Cさんのところにリーダーが県界尾根を下りると言いに来る。本当に良かった。食堂ではAさんBさんがスパッゲティをゆでている。缶詰やなにやらいろいろ持ち込んでいる。優雅な食事だ。この余裕だ。山は余裕をもってこなければ、と思う。お金も少しは余裕があるし、とにかく停滞だ。「この頃は運動靴にポンチョで登ってくる者までいる。何を考えているのやら。」と、山小屋の人が嘆く。AさんBさんCさん達がいう。「人が心配するまでもないのだろう。結構事故もなく山を下りて行くのだ。」 1日中小屋の1F(食堂)や2F(談話室)をブラブラ、写真集を見たりラジオを聞いたりで時間をつぶす。こんな状態でも登って来る人が多い。ずぶ濡れで到着する。入り口の石油ストーブ2台で濡れた衣類を乾かしている。今日は部屋も昨日以上に詰め込む。台風でも夏休みの計画で登るので、中止も難しいのだろう。夕食前神戸からきたFさん夫婦、神奈川の主婦Gさんと歓談する。Fさん夫婦の奥さんは陽気な人だ。話では関西近郊の山をずいぶん登っているようだ。普段は近郊の低山に登り、夏は南アルプス、中央アルプス、北アルプス、八ヶ岳と足を伸ばすというわけだ。皆さんはそれだけに饒舌になる。かくいう私もつい聞かれもしないのに今回の山が31回目で、ワープロで紀行文まで書いていることを話してしまう。夕食後は電灯もつけず暗い談話室で神戸の大学生2人と話す。S君は法学部3回生、T君は理学部2回生の由。部の山行の下見だそうだ。消灯だ、寝る場所が狭く、人息れで暑く寝つかれない。同室の宿泊客も同様のようで消灯後もゴソゴソしている。夜11時ころ、清里の明りが見えるとの声で外に出る。夜空に晴れ間が広がる。ヤレヤレ、停滞した甲斐が有ったというものだ。山頂から四周に人里の灯が見える。はるか南には花火が上がるのが見える。山の上から花火を見おろすのも一興だ。 朝は台風一過だ。停滞した甲斐があったというものだ。同室の皆さんは4時頃から起き出す。ヘッドランプで出発する人もいる。こちらは5時まで寝ている。5:30朝食。朝食後、岩見さん、S、T君に挨拶をして、早々に出発する。南峰から右手に北アルプス、手前に中央アルプス、左手に南アルプス、富士山も見える。富士山はすぐに分かる。日本人は富士山が見えると感激するというが私もその部類だ。そのほかは名前はよく分からない。とにかく、膚寒い。正之、あわてて上着を出す。 「日本の山の大体の概念を実地に知りたいと望む人は、まず八ヶ岳に登ってみるとよい。山好きな男を一人連れて上れば、諸君はかねて名前だけ聞いている内地の有名な山をたいてい一通り見渡すことができる。」(深田久弥「わが山々」) 岩場を注意して歩き出す。ペンキのマークを注意して探して、降りる。正之は軽く下りて行く。緊張の連続だ。注意してキレットを下りる。ときどき足元の石が落ちる。阿弥陀岳や中岳が朝日を浴びて佇んでいる。遥か下にキレット小屋の屋根が小さく見える。かなり下る。森林限界に着く。キレット小屋に到着。ここは閉鎖中だ。水筒を持って水場に行く。水場は荒れているが、冷たい水が流れている。そこへ中年の夫婦が来る。権現小屋に前夜は宿泊したしたという。水場で奥さんが歯磨きを始める。ここからは登りだ。ここからいくつかの峰を越える。小さな峰の頂上に遭難の碑をみる。冬山で遭難したようだ。冬山と夏山では様相が一変するのだろう。阿弥陀岳の尾根が見える。森林限界の上の尾根歩きだ。歩きながら「正之と山に来るのもこれが最後だな」と言うと、こういう山なら来年もきてもよいという。本当にこの尾根歩きは最高だ。後ろの赤岳が東側から霧でどんどんおうわれてゆく。這松が朝露で濡れている。手で触るとかなりの水分だ。これが東から登る太陽の強い陽射しを浴びて蒸発するのだろう。それが霧が湧く生因だ、思う。成るほど、成るほど、と一人納得する。ここの稜線も正之は一人先行する。権現岳の直下に到着する。61段の鉄梯子を登る。正之が上で見ている。こちらはかなりの高度に下を見ないように登る。権現岳に到着だ。

「権現岳(2704b) 八ヶ岳南部、赤岳の南にある。阿弥陀岳から眺めると双峰で、右の峰は東ギボシだ。」(三省堂「日本山名辞典」)

ここから望む赤岳は素晴らしい。天を突く峻険さには心が踊る。ほんの数時間前にあの頂上にいて、キレットを下りてきたのだ。空は晴れていて青いが霧が右下から覆い出す。横岳、小同心、大同心、中岳、硫黄岳、赤岩ノ頭、阿弥陀岳、そして特徴のある蓼科山が見える。何度も何度も後を振り返る。Hさんが食事中だ。写真をお願いする。さらに雲海に浮かぶ山並を教えてくれる。雲が多いが、北アルプスが見える。右から左に槍ケ岳(これはすぐ分かる。特徴のある尖りが目立つ。この槍を中心に山座同定だ。)、大きなキレット、穂高だ。下に特徴のある編笠山が見える。本当に笠のようだ。登山道が一筋に山頂に伸びている。青年小屋の屋根も見える。直下の権現小屋に立ち寄り缶ジュースを飲む。ギボシノ頭に登る道から見るとHさんが高山植物の写真を取っている。正之の話ではミノルタ+マクロレンズだそうだ。正之はこんなことにはやけに詳しい。青年小屋で休憩する。青年小屋の横から編笠山の斜面は石だ。それも大きな石だ。奇観だ。編笠山の山頂も石ころだ。

「編笠山(2514b) 八ヶ岳の南端編み笠の形の円頂を持つコニーデ型火山。西麓に武田信玄がつくった軍用道路の棒道が残る。」(三省堂「日本山名辞典」)

雲が多く眺望は今一歩だ。ガイドブックによれば、晴れていれば釜無川をはさんで南アルプスが絶景だそうだ。雲の切れ間から遥か下に里が見える。弘前大学のグループが休憩中だ。下りは長い。這松から次第に木の背が高くなる。正之、独りでどんどん下りて行く。林床が苔で覆われていて美しい。押手川分岐の標識の場所で道を見失い林の中を下る。段々様子がおかしい。あわてて戻り、また石ころだらけの道に戻る。石ころと言っても大きな石だが。地図を見るとこの地点は青年小屋からの巻道の合流点のようだ。「押手川」に付いての標示板があるが気が焦り読み損なう。残念至極なり。途中でボッカの青年二人に会う。青年小屋か権現小屋への荷揚げか。荷を背負いゆっくり登って来る。思わず、「大変ですね」と声をかける。黙ってうなづく。 

「その裾野が山をやさしく見せているだけで、二つの山(編笠山と西岳)とも、下るときはひきとめ上手だし、登るには遠慮深くどんどん先へ逃げてしまう。いつまでたっても終わりのない大フーガ、と洒落てばかりもいられない。」 (川口邦雄「日本の山100」)

疲労困憊だ。上からみたときは観音平まで一足と思えたが本当にひきとめ上手だ。とにかく食事だ。ガスで味噌汁をつくり、冷たい弁当を食べるが、半分も食べられない。正之は大半を食べ、次いでコーヒーを飲む。ここからもながい。食事はやはり早め早めにしなければ、と反省する。何か目標地点をつくり、そこで食事をするのだ、ということにするとこういうメシバテを起こすのだ。林相が一変してくる。やっと観音平グリーンロッジの駐車場に出る。 「観音平は八ヶ岳の中腹の標高1560bから1600bの平坦な高地で、甲斐源氏の始祖新羅三郎義光が、ここに観世音、矢の堂を建てて鷹の白矢を献じ、武運長久を祈願したという、伝説を残す。また、武田信玄が信越に出陣の折、ここに立ち寄り、戦勝を祈願したとことも語り伝えられている。」(藤本&田代「展望の山旅」) 事務室の横にある公衆電話でタクシーを呼ぶ。タクシー代は3600円とのこと。もう歩く気力無し。40分位かかる、とのことなので、その間に顔を洗い、歯を磨き、着替えをする。弘前大学のグループが到着する。諏訪の方に帰る中年男性に同乗させてほしい、と頼まれる。了承する。タクシーで小淵沢駅に着く。駅でもう少し、ゆっくりしてもよかったが、あわてて特急券を買い、ホームに出る。すぐやってきた特急に乗るも、自由席は満席だ。しかも入口通路は冷房が利かず、立ちんぼうだ。こんなことならと甲府駅で反対側のホームに停車中の普通に乗り換える。時間がかかったがこれが正解だった。高尾で乗り換えるもここが始発だから座れる。新宿駅に到着八ヶ岳の縦走が完了し今年の夏の終わりを実感する。


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