柳瀨和之のホ-ムぺ-ジです
追憶の百名山 会津磐梯山(2006/8/26)
「満州事変90年
 歴史を複眼視する重み」を読む(2021/9/30)

 1931年9月18日満州事変が勃発しました。関東軍の高級参謀板垣征四郎、作戦主任参謀石原莞爾両参謀にる謀略です。当初、陸軍中央部は現地の不穏な状況を察知し参謀本部作戦部長を派遣しましたがその目前で決行されたのです。世界恐慌の直後でもあり、意外や意外、朝野を挙げての熱狂的な支持をえ、あれよあれよという間に歴史が動きがしたのです。これが15年戦争と呼ばれる中国との長い戦争の始まりです。

 この詳しい歴史については日本近現代史のたくさんの書籍が経緯を伝えていますのでお読みください。中学や高校では日本近現代史は微妙な問題を扱っているからという理由であまり教えれていないようです。政治家をはじめ大半の日本人が歴史に無知であることはあまりにも悲しいことだと考えます。

 我が家と「満州」とは深い縁があります。ただこの満州という言葉は現在の中国では歴史的な経緯があって使われていないようです。中国では東北地区と呼称されています。満州事変も中国側では918事件と呼称され、9月18日は「国恥の日」として、中国国民の誰もが知る日となています。

 私の母方の祖父菊池富三郎は宮城県の出身です。私が生まれる少し前に亡くなっていますから祖父の話は全て母と伯母から聞いたものです。祖父は宮城県石巻の網元佐々木家の三男に生まれ、古川の酒屋の一人娘であった祖母菊池キヨのところに婿養子に入ったのです。酒屋の主となり伯母岩子が生まれたのです。日露戦争に出征しました。戦後、無事に古川に帰還したのですが、母や伯母の話ではとても婿に収まっているような人ではなく酒屋を処分して満州に移住すると言い出したそうです。親戚中で大反対をしたそうですが、それを素直に聞き入れるような祖父ではなく大連近くの営口にある石灰の工場を買い移住しました。長女の岩子は親戚の者が渡さないといいうので古川において移住しました。かような次第で母方の伯父、伯母、母、叔母、叔父は全員営口で生まれ育ちました。祖母の従弟に吉野作造、信次がいます。

 私の父方の祖父は残っている彼の履歴書によれば明治11年12月5日に富山県東礪波郡平村大字上梨500で生まれ、明治28年5月5日祖父の父林蔵と兄市蔵が屯田兵でその家族として北海道雨竜郡一己村67番地に入植し、明治34年10月まで農業に従事、それから家を出て北海道各地の山で杣夫として働き、大正4年12月から木材伐採請負業柳瀨組を立ち上げたとたとあります。

 昭和27年から一緒に暮らすようになった祖父が中学生の私に語った話では富山県平村の小学校を卒業するとき担任の先生が祖父の父に徳蔵はとても勉強が出来るから富山の師範学校に入れたらどうかと勧めてくれたそうです。それが叶わなくて悔しい思いをしたということです。

 そういう悔しい思いをした祖父は父を中学から東京に送り出したのですが、三高に落ちて一浪の後、昭和7年明治大学予科に入り、昭和13年に法学部を出て満州奉天で就職をしました。彼の地で結婚をしました。私は満州事変から10年後の1941年1月に満州事変の舞台となった奉天で生まれました。終戦の翌年の1946年7月母と弟の3人で祖父母の住む北海道旭川に引揚ました。

29歳の母が手縫いで作ったリュックを5歳の私とと3歳の弟が背負い、北海道旭川に帰ったのです。私と弟のリュックの中身はアルバムから引きはがした家族の写真、父の大学予科、学部の卒業証書です。これが思わぬ役に立ちました。

 父は1945年4月奉天で現地招集され、敗戦と同時に進駐してきたソ連軍の捕虜となり奉天郊外の兵舎からシベリヤに抑留され、1947年7月に北海道旭川に帰国しました。この卒業証書で旭川地方検察庁に就職し、1949年に新設された高校の社会科教員として高校教員に転職しました。

 私の戸籍謄本には「満州国奉天省奉天市大和区八幡町13号で出生父藤吉届出、特命全権大使梅津美治郎受理、(北海道旭川へ)送付」とあります。特命全権大使梅津美治郎とは当時の関東軍総司令官の梅津美治郎大将です。1945年9月2日、東京湾上の米戦艦ミズーリ号の甲板で降伏文書の調印式が行われましたが日本側の全権団(全権代表重光葵外相)の一員として梅津美治郎参謀総長の名前が見えます。

 祖父は戦争が始まる前の昭和16年には事業を整理し北海道旭川に帰りましたが、奉天で父に「軍部は戦争だ、戦争だ、と騒いでいるが、戦争などしたらひとったまりもないぞ。北海道へ引き揚げろ」と話したところ、父が、「八紘一宇の聖戦をなんと心得るか。非国民だ。親といえども許せない。」と祖父を面罵したそうです。祖父はこういう言説がたたってう憲兵隊に拘留されたそうです。かたわらで聞いていた祖母が、「じいさんはハンカクサイから」といいました。祖父は「俺は無学であるが時勢が見えた。藤吉は大学まで出したのに何の役にも立たなかった」と言っていました。

 祖父は祖父なりに父に思いを託したのでしょうが、なかなかそうはゆっかなかったという訳です。ただ当時の風潮としてはすくなからぬ学者や文化人までが大東亜共和圏などを信じていたのですがら私の父だけが攻められる話しではないかもしれません。

 父が教員をしていた高校の図書室とも言えない教員室の隣の部屋の書架から満蒙開拓団の記録を借り出して読みました。題名は記憶にありませんが、終戦時の開拓地の混乱の様子を当時の関係者が記述したものです。

敗戦によって中国農民の怒りが爆発し命からがら開拓地から着の身着のまま奉天を目指して逃げ出したのです。新京に関東軍司令部がありましたがこちらはいち早く特別列車を仕立て軍関係者軍人家族を南下せしめたのです。

 詳しい歴史の背景は知りませんでしたが、その悲惨な記録に中学生の私は体が震えるくらい熱くなったのを覚えています。冬の深夜、奉天の市中は森閑としている中パンという音を聞いたことがあります。のちに母に聞いたところソ連兵が略奪に出たとの話でした。

 農業部門の改善の方策の一つとして満州(中国東北地区)への農業移民が推進されました。満蒙開拓団です。満蒙開拓団の少なからざる人たちが現地に行って落胆したのも当たり前の話です。開拓地が原生林を切り開く文字通りの開拓などではなく中国の貧しい農民の耕作地を安い代価で買い上げたり無理やり取り上げたりしただけのことだったからです。小作争議が頻発しても何等の根本的な方策もなく農地改革は敗戦を待たなければなりませんでした。石橋湛山が「満州を返せ、朝鮮を返せ、台湾を返せ」と主張して国内への投資による経済再生を訴えましたが聞き入れられませんでした。こうした重大な政策を遂行するには強力な政治的リ-ダ-シップと強い国民の支持がなければとても手を付けるわけにはゆかないのです。こうしたあらゆる経済の矛盾解決の矛先が「満州」だったのです。

 毎期財政は赤字、膨らむばかりの国債残高、人口は老齢化を目の前にしているのが今日の日本の状況です。こうした事態に政治家だけで立ち向かえることは出来ず、国民も自らが正面から向き合わなければならいと考えるのです。このままでは今日の日本も残念なことに同じ道を歩いているような気がしてならないのです。

 齢八十を超える年寄りが、心配をしたところでどうなることではないことはわかっています。朝日の社説を読んで、「歴史を複眼視する」ことの大事さを痛感しました。国民の皆さんが歴史を学び先人達の失敗を繰り返さないように願うばかりです。

 
柳瀬和之(やなせかずゆき) 東京都大田区在住
yanase@taiyohdoh.net