丹沢の雪景色(20040321撮影)
大倉、大倉尾根、塔の岳、表尾根、政次郎尾根、大倉の周回コ−ス
撮影場所が特定できないのですが懐かしく思い出しています
私の読書遍歴第2回(2022/3/12)

 1960(昭35)年9月池田内閣の所得倍増計画を報じる記事が新聞の紙面を賑わせていました。明るい未来を予感させ漠然とこんな生活をっしていてよいのだろうかと焦燥感を感じました。

 この頃だと思うのですが朝日新聞で旧制武蔵高校時代から勤めておられる守衛風祭金太郎さんの紹介を切り口にした大学紹介の記事を読みました。

 父が生きているときは漠然と教員の途を考えていたのですが、こうして東京に来て所得が10年で2倍なるとかの新聞記事を読むと経済への関心がにわかに高まりました。目新しいことがあると何にでもすぐに興味を持つ私ですからこれからは経済学だと思ったのです。全学でも1200名足らずのこの小さな大学を知って気もそぞろになりました。入試科目も3科目ならなんとかなるのではないかと考えたのです。

 生活も貧しいながらなんとか回り始めていました。授業が終わればすぐ帰れば何とかなると思ったのです。の時ばかりは2年近く気持ちが動揺していたことを痛感しました。それでも何とか入学できたのです。今、考えるとこれが私の人生での最大の幸運であったかもしれないと考えています。

 入学早々、上池上の伯父伯母に大学入学の報告に行きました。伯母はそのために東京に呼んだだと言ってとても喜んでくれました。小さな無名の大学ですから学校の話をしました。祖母が吉野学長を信次さんと言い出したのでびっくりしました。祖母は宮城県古川の出身で、吉野信次学長と縁戚関係(従兄弟)にあることを知りました。母からは大学で余計なことを口外しないように口止めされました。 高校時代のクラスメ−ト近藤君に大学に入れたことを知らせたたらすぐに家庭教師の口を紹介してくれました。

 1、2年次の指導教授は経済学説史担当の藤塚知義先生です。ゼミの開講は4月2週目の金曜日午後だったと記憶していますが、先生の研究室で始まりました。指定された図書は長州一二「日本経済入門」、モ−リスドップ「資本主義 昨日と今日」の2書です。私はこの時の先生の開講の辞にいたく感激しました。心が舞い上がったことを今でも鮮やかに思い出します。

 ゼミは毎週金曜日の午後です。1章毎に報告者が割り当てられ、その報告後に議論をするのです。経済学のまだ基礎知識がない連中が気負って勝手に話すのです。話すためには本を読んでいなければなりません。語学の授業などで他のゼミの誰それが「資本論」を読んでいるなどの話が耳に入ります。入学前に充分に理解できたどうかはわかりませんが、出版されたばかりのガルブレイスの「豊かな社会」を読んでいましたし、もともと「文芸春秋」の雑読派ですから「資本論」には気乗りがしません。そんなことで学校の帰り途、立ち寄った新宿の紀伊國屋書店でたまたま手にしたのがマックス・ウエ−バ− 基督教的倫理と現代」(青山秀夫岩波新書)です。

 近代社会の根底を知ったような気がしました。この後、完全に理解できたとは思えませんが「プロテスタンテイズムの倫理と資本主義の精神」、「職業としての学問」、「官僚制」を夢中で読みました。ゼミでもマックス・ウエ−バ−、、マックス・ウエ−バ−と熱をあげていました。パッペンハイムの「近代人の疎外」を読んだ折には近代社会が必然的に抱える精神的な重しを知りました。話は前後しますが、後年、アルビン・トッフラ−の「第三の波」を読んだときは学生時代に熱を上げたマックス・ウエ−バ−のことを考えました。

 そういうことを考えているうちに次第に日本社会の精神的な基底はどうなのかと関心が広がりました。飯塚浩二「日本の精神風土」、「日本の軍隊」、亀井勝一郎「現代人の研究」、長谷川如是閑「日本的性格」、福沢諭吉「福翁自伝」、笠 信太郎「ものの見方考え方」 、岡倉天心「茶の本」等々を読みました。

 大学には旧制高校創立時に掲げた三つの理理想がありますが、その一つ、「東西文化融合の我が民族使命云々」などは大正から昭和前期の日本の精神構造を如実に顕していると考えます。

 当時、多くの日本の知識人達が日本とドイツの精神構造の類似性を協調していましたが、長谷川如是閑は明治の日本人は決してそうではないこと力説しています。私も同感です。幕末期に自ら漢学や洋学を学んだ知識人、例えば福沢諭吉の「福翁自伝」、「学問のすすめ」等を読めば大正から昭和前期の知識人達の精神構造がオバ−ランしていたことがすぐ理解できるはずです。そこで当然ながらへ−ゲルの弁証法的な回帰が戦後始まるわけです。福沢諭吉にはプラグマテイストの面目躍如たるものがあります。こういうことから私は大学を出てからになりますが、「フランクリン自伝」だ、「高橋是清j自伝」等々を読みましたし、、日本人の自伝」(平凡社全25巻)も所蔵しています。

 1年次に聴講した全学特別講義で永井道雄先生の講演で主体性を以て生きる下りではとても感激しました。こういうことから講演を聴くことがとても好きになりました。1、2年次の学生対象、3、4年次の学生対象の全学特別講義が私の2年次から土曜講座として根津講堂から大教室での開催と変更されました。「講演を聴く」に書きましたが、今でも思い出すのが以下の先生方のお話です

★重友毅法政大学教授(武蔵大学土曜講座)
「井原西鶴の文学の本質は好色物にあらず、倹約力行を通して健全なる町人倫理を説いたことにあった。私は日本文化の精神的基底に触れた思いでした。

★美術評論家川北倫明(五島美術館講演会)
岡倉天心、横山大観と絵を題材に東洋と西洋の対比を論いられました。

★我妻栄東大教授(岩波書店文化講演会)
我が国の民法には仏法、独法のそれぞれの理念が混在していて法のよって立つ理念が曖昧であるのに比して日本国憲法は英文直訳云々を通り越してその有する根本的な思想が明快であると話され感銘を受けました。

 大学で雑学ばかりしていたのではありません。2年次の藤塚ゼミの教材はなんと「経済白書総論」でした。サミエルソンの「経済学」は抄訳版で都留重人監修で岩波書店から完訳版が出たのは私が大学を出てからでした。また当時はマクロ経済学だ、ミクロ経済学だとか云う理論体系も判然としていませんでした。ただ私はどうしてもマルクス経済学の立場には立つことが出来ませんでした。それにしても「アダム・スミス革命」の著者である碩学の藤塚先生の前でマックス・ウエ−バ−、マックス・ウエ−バ−と熱を上げていた未熟な学生の言説を貴方の主張したいことはこうい事でしょうと話された藤塚先生はなんと寛容な心を持っておられたものだと尊敬をしています。

 3、4年次はそういう経緯で大学の論集に「ドマ−の生長金融」等を書かれていた金融論山口正吾先生のゼミに入りました。先生のゼミでの口癖は「条件次第」という言葉です。3、4年次には「J・M・ケインズの経済学」(D・デイラ−ド 岡本訳東洋経済新報社)、4年次にかけて「貨幣理論と財政政策」(ハンセン 小原訳有斐閣)を読みました。この二書は原書も購入し照らし合わせて読みました。山口先生にもよく質問をして教えていただきました。

 都留重人先生の「戦後日本のインフレ−ション」を読みましたが、この書で山口先生の言説が紹介されていますが「条件次第」の先生らしいと思いました。理解が十分されたかは別としてこの後に読む本としてクラインの「ケインズ革命」について先生にお尋ねしたとき即座に「この書は天才の書かれた書です。大学院で読んで下さい。」と云われました。その時、就職の話もあって先生から薦められたのが、「週刊東洋経済誌」を読むことでした。私はそれから図書館で拾い読みをし始めました。この頃、読んだ書籍で忘れないのが、小冊子の「日本の物価問題」(館竜一郎、小宮隆太郎 東洋経済新報社)です。鮮やかな日本経済の分析には心躍らせました。私はこうしてジャ−ナリストへの途を志し、山口先生にも推薦状を書いて頂きました。この後のことをいろいろ思い出しますが複雑な思いでいっぱいです。

 9月中旬に腎炎を発症し荏原病院で即入院となりました。浮腫は引いたのですが慢性に移行し、結局、10ケ月近い入院となりました。就職もだめになりました。この後、10年生きることが出来るのかと不安におののいていました。

 主治医の寺田真先生の話しでは月に3、4日大学に行っても何ら問題はないし、とにかくここで横になっていると血流が4分の1になって悪いなりに固定するという説明でした。私は八十を過ぎた今日でも寺田先生のお名前は私の命の恩人として忘れることが出来ません。

 そんなことで東京オリンピックは病院のベットで迎えましたし、同室の皆さんが話しをするのを聞いていました。病室は6人部屋です。ほとんどの方が私の父親前後の方々でした。入れ替わり、立ち替わりですが、新しく入院してくる患者さんに病名を聞かれたりしてお話をしているうちに次第に気持ちが落ち着いてきました。今の職業についての有益なアドバイスを頂いたことを思い出します。とにかく病院から月に2、3回大学に通い卒業することが出来ました。ただ入院中はほとんど本を読んでいません。この病気のおかげで私の雑読雑学の旅は大学を出てからが本格的になるのです。

続く

 齢80を越えいよいよ人生の終末期となりました。視力が落ちて来て、何時までこんなことを書いておられるかあやしくなりました。読書のことを書きながらついつい脱線をしています。ご容赦願います。

戻 る