追憶の山道 尾瀬沼から尾瀬御池を歩く (1998/7/19)

戦後を生き抜いた人々(2020/12/8)

 
 私はこのところyoutubeでNHKカルチャラジオ「声でつづる昭和人物史」を聴いていましたが、今回、たまたま故ドナルド・キ−ン教授に当たりました。教授がコロンビア大学を卒業されて後、ハワイの海軍日本語学校に学び情報士官として太平洋戦争に従軍されたこと、それが契機となって戦後日本文学の研究者になられたこと、2019年に亡くなられたこと等は知っていましたが、この機会にとネットで検索してみました。

 ネットで調べてみて驚いたことがいくつかあります。

☆正宗白鳥がイギリス人のアーサー・ウェイリーが訳した「源氏物語」を読んでいたことは知っていたが、教授も1940年にタイムズスクエアで厚さの割に49セントという安さで購入したこのアーサー・ウェイリー訳の「源氏物語」を読んで感動したということ。これが大学卒業後、太平洋戦争の開戦によりハワイに開設された海軍の日本語学校に入学する遠因になったこと。

☆教授が情報士官として第一線に出て最初に日本人捕虜の尋問に当たのが豊田穣であったということ。私は豊田穣著「ミッドウエイ−作戦」を読んでいたので、豊田穣という名前を見てあっと驚いた。

 著書の「まえがき」にも「あとがき」に格別の記載がないので、そこで豊田穣のことをネットで調べてみてさらに驚いたことがいくつかある。

☆豊田 穣(1920/3/14 - 1994/1/30)は1940年8月海兵卒業(68期)し、1941年4月、第36期飛行学生を経て、空母「飛鷹」の艦上爆撃機のパイロットであったこと。

☆1943年4月7日、九九艦爆を操縦しガダルカナル島飛行場攻撃の際、南太平洋サボ島沖でグラマンに撃墜され、同乗の相川兼輔上等飛曹とともに脱出、ゴムボートで3日間漂流したのちニュージーランド海軍哨戒艇に拾われ捕虜になったこと

☆1944年4月8日アメリカ本土シカゴ西北のマッコイ捕虜収容所に移送され、そこで日本人捕虜第1号の酒巻和男(海兵同期)と再会したこと

☆酒巻和男は1941年12月6日真珠湾攻撃に潜水母艦から発進した二人乗り特殊潜航艇5艇で侵攻したが酒巻艇はサンゴ礁に座礁し、鹵獲を防ぐ為に時限爆弾を仕掛け、同乗していた稲垣清二等兵曹と共に脱出するが、漂流中に稲垣ともはぐれ(稲垣はその後行方不明)、自身も酸欠による失神状態で海岸に漂着していた所を、日系アメリカ人の陸軍兵士のデビッド・アクイに発見され、対アメリカ戦争での最初の日本人捕虜となった。

☆1946年3月、酒巻とともに輸送船モーマックレーン号で浦賀に上陸し、帰国する。

☆豊田は幾つかの職を経て中日新聞記者となり、そのかたわら執筆活動を続け、1971年、『長良川』で第64回直木賞を受賞した。

☆豊田は中日新聞の記者として酒巻の談話を発表。その記事が契機となり酒巻はトヨタ自動車工業へ入社。輸出部次長など勤め1969年に同社のブラジル現地法人である「トヨタ・ド・ブラジル」の社長を勤め、愛知県豊田市で81歳で亡くなっている。

☆豊田と相川が救助され、水兵がコーヒーとパンを持って来た時、相川が自決を願い出たが、豊田はそれを止めたいう。日本軍の士官、下士官は捕虜になると必ず自決を求めるそうだが、豊田はそうしなかったというし、尋問にも事実と異なる話をするなど様々な抵抗を試みたという。
 相川は、戦後は航空自衛隊に入って三等空佐で退官し、伊東温泉でマッサージ師をしていたが、1976年3月8日に割腹自決を遂げた。豊田は元部下への聞き取りから、動機が捕虜となっていた事への負い目であると分かり、『割腹』という小説を書いた

 今から79年前の1941年12月8日真珠湾攻撃から太平洋戦争が始まったのです。私は1941年1月満洲奉天の生まれですから1歳でした。生前、母から聞いた話ですが、満洲奉天でも、夜、市内で提灯行列があり気持ちが大変高揚していたとのことでした。1945年8月敗戦を迎えましたが、我が家でも父が出征していてシベリヤに抑留され、私は母と弟と3人で1946年7月祖父母のいる北海道旭川に引き揚げました。こういう歴史の大変換期にはどう主体的に生きるかが問われるているのだと考えるのです。五味川純平の小説「人間の条件」の中で作者が主人公をして「自分で見たこと、納得したこと以外を信じてはならない」と語らしめるところがあるのですが、正確に思い出せません。このくだりをご存知の方はどうかご教示ください。
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