私の感傷旅行 富山五箇山&岐阜白川郷
('15/8/22〜23)

写真アルバム

 8/22から23と北陸新幹線を利用して富山五箇山、岐阜白川郷と周遊しました。富山五箇山は祖父の出身地です

 中学生になってから祖父母と同居することなり、祖父が富山五箇山の出身であり、父が転勤してきたこの地が祖父が明治時代に屯田兵の家族として入植した地に近いことを知りました。

 祖父の話では富山県平村の小学校を卒業するとき先生が祖父の父に徳蔵はとても勉強が出来るから富山の師範学校に入れたらどうかと勧めてくれたそうです。それが叶わなくて悔しい思いをしたということです。一家を挙げて北海道に移住し、25,6歳の頃、祖父は次男ですから家を出て杣夫としてあちらこちらの山で働き、その後独立して財をなしたとのことでした。
そんなことで祖父は父を中学から東京に送り出したのですが、三高に落ちて、帝大の夢は終わったそうです。父は昭和7年に明治大学予科に入り、昭和13年に法学部を出て満州奉天で就職をしました。彼の地で結婚をし、私が16年1月に、弟が17年10月生まれたという訳です。祖父が何度も中学生の私に話したことは戦争が始まる前に、奉天で父に「軍部は戦争だ、戦争だ、と騒いでいるが、戦争などしたらひとったまりもないぞ。北海道へ引き揚げろ」と話したところ、父が。「八紘一宇の聖戦をなんと心得るか。非国民だ。親といえども許せない。」と祖父を面罵したそうです。祖父はこうい言説がたたってう憲兵隊に拘留されたそうです。かたわらで聞いていた祖母が、「じいさんはハンカクサイから」といいました。祖父は「俺は無学であるが時勢が見えた。藤吉は大学まで出したのに何の役にも立たなかった」と言っていました。

 母が、昔、旭川から御殿場の富士霊園にお墓を移すとき祖父の遺品を持ってきましたが、その中にかなりの大部の書類綴り(請負契約書、納税証明願い、履歴書)がありました。祖父が自分の生きた証として大事に保管をしていたのでしょう。その書類には格別の関心がありませんでしたが、最近、履歴書を手にしてみて祖父の詳しい履歴がわかりました。明治11年12月5日に富山県東礪波郡平村大字上梨500で生まれ、明治28年5月5日家族で北海道雨竜郡一己村67番地に入植し、明治34年10月まで農業に従事、それから家を出て杣夫として各所の山で働き、大正4年12月から木伐業として独立し柳P組を立ち上げたとたとあります。祖父は祖父なりに父に思いを託したのでしょうが、なかなかそうはゆっかなかったというわけです。私が中学生の頃、教員のかなりの子弟は3年の2学期になると旭川や札幌の中学に転校しましたが、父は私に自分は寂しい思いをしたから君が高校卒業するまでは家から出さないと言っていました。

 北陸新幹線が開通し、私の永年の念願であった五箇山を訪ねることが出来ました。平村上梨592にある民宿に泊まり、この小さな集落のあちらこちらを歩き回りました。集落の神社、お寺、小学校の跡、墓地まで見て回りました。祖父がこの地を出たのは100年以上も昔のことです。ただ目をつむれば「俺は無学であったが時勢が見えた」と語っていた祖父の顔が浮かびます。帰りは白川郷に立ち寄り、高山、名古屋経由で帰り着きました。こうして私のこの夏のセンチメンタル・ジャニーは終わりました。
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