幸田露伴の「運命」を読んで思うこと’15/6/24
  HPも更新をしなければと気になっていた。格別これという仕事をしているわけではないが、気ぜわしく毎日を過ごしている。蘭の花もまだ咲いていてその生命力には驚くばかりだ。同じ写真では変わり映えがしないので紫陽花(自宅近所にある蓮光院門前)の写真を載せます。

 幸田露伴の「運命」を読んだ。以前から気にかかっていたのでダウンロードをしてkindleで読んだ。

 一読、二読してやっと何とか文意を理解した。出てくる漢語もルビがながなければ読めない上、その意味も前後の文脈から何とか理解する程度というお粗末さだ。三読し、声を出して読んだ。文語文の流麗さに心を奪われた。明治の文豪の筆力というか、博識というか、学識というかにただただ驚くばかりだ。長文であるがルビを一切省いて引用してみた。この一文を読む諸子、是非一読されんことを。

「運命」その一
 かって在職していた後輩のK君の息子(公認会計士37歳)が6月1日福岡から着任した。お父さんが福岡で独立開業する時、小学4年生で福岡に往ったという。ということはK君が事務所を辞めて26年たったのだ。そんなことで露伴の「運命」の冒頭が何度も口を次いで出てくる。

 世おのずから数というもの有りや。有りといえば有るが如く、無しと為せば無きにも似たり。(・・・・・略・・・・)
 此等を思えば、数無きに似たれども、而も数有るに似たり。小説野乗の記するところを見れば、吉凶禍福は、皆定数ありて飲啄笑哭も、悉く天意に因るかと疑わる。されど紛々たる雑書、何ぞ信ずるに足らん。仮令数ありとするも、測り難きは数なり。測り難きの数を畏れて、巫覡卜相の徒の前に首を俯せんよりは、知る可きの道に従いて、古聖前賢の教の下に心を安くせんには如かじ。かつや人の常情、敗れたる者は天の命を称して歎じ、成れる者は己の力を説きて誇る。二者共に陋とすべし。事敗れて之を吾が徳の足らざるに帰し、功成って之を数の定まる有るに委ねなば、其人偽らずして真、其器小ならずして偉なりというべし。先哲曰く、知る者は言わず、言う者は知らずと。数を言う者は数を知らずして、数を言わざる者或は能く数を知らん。
 古より今に至るまで、成敗の跡、禍福の運、人をして思を潜めしめ歎を発せしむるに足るもの固より多し。されども人の奇を好むや、猶以て足れりとせず。是に於て才子は才を馳せ、妄人は妄を恣にして、空中に楼閣を築き、夢裏に悲喜を画き、意設筆綴して、烏有の談を為る。或は微しく本づくところあり、或は全く拠るところ無し。小説といい、稗史といい、戯曲といい、寓言というもの即ち是なり。作者の心おもえらく、奇を極め妙を極むと。豈図らんや造物の脚色は、綺語の奇より奇にして、狂言の妙より妙に、才子の才も敵する能わざるの巧緻あり、妄人の妄も及ぶ可からざるの警抜あらんとは。吾が言をば信ぜざる者は、試に看よ建文永楽の事を。

「運命」その二
 景隆とその父李文忠の人物を評した文中に後醍醐帝の時代の日本に言及した箇所がある。それが現代の日本と中国の関係とオーバーラップする。

 景隆小字は九江、勲業あるにあらずして、大将軍となれる者は何ぞや。黄子澄、斉泰の薦むるに因るも、又別に所以有るなり。景隆は李文忠の子にして、文忠は太祖の姉の子にして且つ太祖の子となりしものなり。之に加うるに文忠は器量沈厚、学を好み経を治め、其の家居するや恂々として儒者の如く、而も甲をぬき馬に騎のり槊を横たえて陣に臨むや、たくれい風発、大敵に遇いて益ますます壮に、年十九より軍に従いて数々偉功を立て、創業の元勲として太祖の愛重ところとなれるのみならず、西安に水道を設けては人を利し、応天に田租を減じては民を恵み、誅戮を少くすることを勧め、宦官を盛んにすることを諫め、洪武十五年、太祖日本懐良王の書に激して之を討たんとせるを止め、(懐良王、明史に良懐に作るは蓋し誤也。懐良王は、後醍醐帝の皇子、延元三年、征西大将軍に任じ、筑紫を鎮撫す。菊池武光等之に従い、興国より正平に及び、勢威大に張る。明の太祖の辺海毎に和寇に擾さるゝを怒りて洪武十四年、日本を征せんとするを以て威嚇するや、王答うるに書を以てす。其略に曰く、乾坤は浩蕩たり、一主の独権にあらず、宇宙は寛洪なり、諸邦を作して以て分守す。蓋し天下は天下の天下にして、一人の天下にあらざる也。吾聞く、天朝戦を興すの策ありと、小邦亦敵を禦ぐの図あり。豈肯て途に跪いて之を奉ぜんや。之に順も未だ其生を必せず、之に逆うも未だ其死を必せず、相逢う賀蘭山前、聊以て博戯せん、吾何をか懼れんやと。太祖書を得て慍ること甚だしく、真に兵を加えんとするの意を起したるなり。洪武十四年は我が南朝弘和元年に当る。時に王既に今川了俊の為に圧迫せられて衰勢に陥り、征西将軍の職を後村上帝の皇子良成王に譲り、筑後矢部に閑居し、読経礼仏を事として、兵政の務をば執りたまわず、年代齟齬するにたり。然れども王と明との交渉は夙に正平の末より起りしことなれば、王の裁断を以て答書ありしならん。此事我が国に史料全く欠け、大日本史も亦載せずと雖も、彼の史にして彼の威を損ずるの事を記す、決して無根の浮譚にあらず。)一個優秀の風格、多く得可からざるの人なり。洪武十七年、疾を得て死するや、太祖親しく文を為りて祭を致し、岐陽王に追封し、武靖と諡し、太廟に配享したり。景隆は是の如き人の長子にして、其父の蓋世の武勲と、帝室の親眷との関係よりして、斉黄の薦むるところ、建文の任ずるところとなりて、五十万の大軍を統ぶるには至りしなり。景隆は長身にして眉目疎秀、雍容都雅、顧盻偉然、卒爾に之を望めば大人物の如くなりしかば、屡出でゝ軍を湖広陝西河南に練り、左軍都督府事となりたるほかには、為すところも無く、其功としては周王を執えしのみに過ぎざれど、帝をはじめ大臣等これを大器としたりならん、然れども虎皮にして羊質、所謂治世の好将軍にして、戦場の真豪傑にあらず、血をふみ剣を揮いて進み、創を裹み歯を切って闘うが如き経験は、未だ曾て積まざりしなれば、燕王の笑って評せしもの、実に其真を得たりしなり。
  
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