蘭の花
3年目の蘭の花’15/3/15
 今年も蘭の花が咲きました。寒い日が続くようで例年に比べて開花が少し遅れているようです。昨年、3年ほど前にこの蘭の花を贈って頂いた方々に写真を差し上げましたが一様に驚いておられました。いろいろな好条件がそろったのでしょうが、一番は職員の広瀬さんの丹精のおかげです。

 やっと確定申告が終わりました。後輩達が遅くまで仕事をしているのですが、9日は早く帰ってTBSテレビドキュメンタリー「私の街も戦場だった」を見ました。母校旧制最期の卒業生の黒柳美恵子さんとお姉さんの良子さん(良子さんも母校の先輩です)が、昭和20年8月5日長野に疎開するべく乗った列車が中央線高尾近辺で米軍機の機銃掃射を受け、お姉さんの良子さんが亡くなりました。私が同窓会でHPを担当しているとき旧制最期の黒柳さん、山腰さん、新制1期の小林さんが定例幹事会に出席されていて皆さんに懇意にしていただきました。お姉さんの亡くなった話は聞いてはいましたが、こうしてテレビでドキュメンタリーを見ると改めて戦争の悲惨さを実感させられます。

 私は満州国奉天省奉天市大和区八幡町13号で生まれ、ここで終戦を迎えました。昭和20年4月父は奉天で現地応召し、8月終戦と同時に進駐してきたソ連軍によって奉天郊外の兵舎からそのままシべりアに捕虜として抑留されました。
 翌年、21年7月奉天駅から母(29歳)、私(5歳)、弟(3歳)3人で無蓋列車でコロトウ(遼東半島の西側にある港)の収容所に向かいました。奉天駅前での所持品検査の様子。列車が走っては停まり、走っては停まったことを鮮明に覚えています。この港から引揚船で博多、そして祖父母のいる北海道旭川に帰りました。翌22年に父がシべりから帰還して家族がそろい、新しい生活が始まりました。23年には妹が生まれました。

 私の戦争体験と言えば奉天でのこれらのかすかな記憶だけです。21年の1月か2月、進駐してきたソ連兵が、夜、厳重に戸締まりをして息を潜め森閑としている凍てつく市内に略奪に出るのです。パン、パンという銃声を聞いたことを思い出します。

 私は後年この時のかすかな記憶を母に話したことがあります。母は良く覚えていると言っていましたから、私の記憶もおおむね正しかったと思います。母の話では当時婦女子は顔に炭を塗ったりして戦々恐々であったと言っていました。おまけけ私が引揚船の中で甲板にあるバルブを開けて水浸しにしたりと悪戯でとても困ったと言う話をしてました。私もこのことは覚えています。母とこうして何度も思い出話をしました。

 中学生の時、父の勤務する学校の図書を借り出して満蒙開拓団の悲惨な記録を読んだときは怒りで体が熱くなったことは今でも忘れらません。私のこういう体験がいまも、何故、日本がああいう無謀な戦争を始めてしまったのかを知りたくて日本近現代史への読書に駆り立てられるのです。

 最近、東洋経済誌で御厨貴東大名誉教授が、野口悠紀雄先生との対談で「一つ懸念があるのは若い世代の考え方の変化で、安倍首相の靖国神社参拝に対する諸外国の批判は当たらないという学生は東大でも増えつつあります。歴史的経緯を教えても彼らは納得しません。90年代生まれには、靖国問題に中韓が介入してくることを感情的に受け入れられないうけいこうが強い。」(週刊東洋経済1/17号)と言っておられます。

 こういう現在の日本の社会に対し、とりわけ近現代史に対する無知を指摘する声は外国からも聞こえてきます。

「今の日本人に必要なのは、もういちど1920年代、30年代、そして戦争の時代へと、日本の政治がどういう軌跡をたどったか学び直すことではないでしょうか。近現代史は微妙な問題だからという理由で、学校でもちゃんと教えていない。その結果、過去に起きたことについて、今の日本人は驚くほど知識がない。これは非常に危険であり、望ましくないことだと思っています」(アーサー・ストックウィン・オックスフォード大名誉教授)

 戦後70年、黒柳美恵子さんの悲しい体験が大勢の日本人に伝えられることはとても貴重です。若い世代の人たちが、この100年の日本の歴史の「光と影」を虚心坦懐に学ばれることを願うばかりです。
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