第381回山行報告 百名山 白山(’10/8/5〜7)
 今年の夏山は百名山白山(標高2702b)だ。白山は富士山、立山とともに三名山にあげられている名山だ。白山とは総称で最高峰の御前峰(2702b)、大汝峰(2684b)、剣ガ峰(2677b)等から成る。高山植物が豊富なことで知られる。東京からだと距離が遠いので天候や体調次第ではお隣の福井県にある百名山荒島岳を登ってみようと計画したが、家内からとにかく無理をしないで欲しいと言い渡されているので体調天候次第ということで出かけた。夏山で遠出をする楽しみは百名山の記録を増やすことであるが、そのほかにも初めての土地を旅する楽しみもある。金沢は2度旅行をしているが、福井は初めての地でもあり、この地を訪れたならばとにかく訪ねたい所があるのだ。福井市足羽公園にある藤野厳九郎碑だ。

8/5(木)
 新幹線、特急を乗り継いで福井に着いた。福井からは越前鉄道で終点の勝山に向かった。。単線で車両一両の第3セクターの経営する鉄道だ。こういう地方の電車に乗るのも楽しい。運転席のすぐ後ろの席に座るとすぐに臨席の奥さんから声を掛けられた。10年前まで東京三軒茶屋に住んでおられれたとかで東京近郊の山の話だ。この方が下車された後はアテンダントの女性が正面に見える山が白山ですと教えに来てくれる。しばらくするとあの三角形の山が大野富士といわれる荒島岳ですと教えに来てくれる。本当に有り難い。

 勝山からタクシーで白峰に向かった。車中で荒島岳に登る登山口の勝原のことを聞いてみた。勝原は「カドハラ」と読み、大野市にあり、この勝山市とは相当なる距離があること、最近、荒島岳で中年男性が滑落し死亡した事故があったとのことだ。

 宿に着いて受付を済ませた後、宿の前にある第3セクターの経営する総湯で一浴びをした。夕食まで時間はたっぷりある。浴衣姿で集落を散策した。浄土真宗林西寺の本堂、本地堂を拝観させていただいたが、その立派さには驚いた。

8/6(金)
 夜は早々に床についたがなかなか寝付けなかった。朝5時には起きて朝食をおにぎりにしてもらったので、同宿していた岡山からこられたという女性と一緒に宿の女将の車で集落の外れにあるバスの停留所まで送って貰った。金沢発の直行バスで市ノ瀬経由で登山口の別当出会に向かった。ここで朝食だ。身支度をして人影が無くなった後、7時54分歩き出した。今日のコースは砂防新道だ。登山道はよく整備されていて迷うことはない。40分前後歩いては休憩したが、中飯場、甚ノ助ヒュッテではぐっすり寝込んだ。中飯場、甚ノ助ヒュッテではホースで引かれた水があり、甚ノ助ヒュッテから少し上がると小沢からの冷たい水があり、生き返った。黒ボコ岩に到着したが、ここが観光新道との合流点だ。ここから少し歩いたところから弥陀ヶ原の木道だ。水が豊富、高山植物が豊富な理由はここに広がる高層湿原によるものであろうと得心した。ただこの木道を歩ききってから最後の大きな石がごろごろした緩やかな坂には悲鳴をあげた。なんとか室堂ビジターに1時42分に着いた。

8/7(土)
 夕食の後、することもないので床に入って大阪から来たという30代の方と山の話をしているうち消灯となり寝てしまった。なんだか熟睡はしていない。にわかに室内が騒々しくなる。隣に寝ていた敦賀から来られたという中年男性も起きられて身支度をする。時計を見ると3時だ。皆さん、ご来光を見るために起きられたようだ。暫くすると静かになるので5時まで寝ていた。朝食を食べてから6時15分御前峰山頂に向かった。降りてくる人が多くて登る人は少ない。ゆっくりゆっくりと登った。6時50分山頂に着いた。東からガスが流れて剣ガ峰が見えなくなる。暫くすると姿を現す。朝日に輝いていたビジターセンターもすーっと見えなくなる。暫くすると姿を現す。東側の大倉山に真っ白な大きな塊の雲がかかっている。写真も撮った。いよいよ下りだ。7時50分にビジターセンターに戻った。振り返ると御前峰はもう見えない。食堂でコーヒーを飲んで8時10分下山開始だ。登ったとおなじ道を戻ろうと決めた。写真を撮りながら降りてきたが甚ノ助ヒュッテ前後から登ってくる人が多く歩くのが思うに任せない。それだけゆっくりと降りてこれるという訳だ。12時丁度に別当出会に帰り着いた。

 1時30分のバスで白峰に戻って総湯で一浴びした後、福井に戻った。福井9時50分発新宿5時30分着の夜行バスを予約しザックをコインロッカーに預けて観光案内所に向かった。足羽公園にあるという藤野厳九郎碑のことを尋ねたがわからないようで、あわら市にある藤野厳九郎記念館のパンフレットを頂いた。足羽公園は車であれば4,5分とのことでタクシーで向かった。運転手さん公園の茶店で所在を聞いてこられて案内をしてもっらた。階段を10段位上がったところに「惜別」と刻まれ台座に藤野先生のレリーフが埋め込まれていた。裏面の文字はかすれて読めない。私は中国奉天(瀋陽)で生まれているし、母から私が生まれた当時の日本人の中国人への思い上がった振る舞いを聞いているので、この藤野先生のことを知ったときはは深い感動を覚えたのだ。先生のレリーフを見て感動を新たにした。藤野先生は日本人の良心であり、誇りだ。観光案内所の若い女性が、「中国の方で藤野先生の名前を知らない人はいないそうですね」と云っていたが、願わくば日本人でも知らない人がいないようにしたいものだ。

      
藤野厳九郎先生
明治 7年(1874年)7月11日生
昭和20年(1945年)8月11日没
藤野厳九郎碑の題字は魯迅夫人の許広平女史の筆になります。
藤野先生のことは「閑話U」の「魯迅と仙台」の拙文をお読みいただければ幸いです。

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