第364回 塔の岳(’08/10/4〜5)
 いよいよ丹沢だ。9月にどこか遠出をしてから10月から丹沢と考えていたが、お天気が悪くて9月の山行はゼロだった。
 大倉どんぐりハウス前のベンチでおにぎりを食べてから10時20分に歩き出した。最初はカンカータ歎異抄だ。今回はHさんの追悼山行だ。下を見てゆっくり歩くだけだ。次のバスで来た人たちであろうどんどん追い抜いてゆく。11時11分見晴小屋についたが終わらない。テラスの前のベンチで休憩を兼ねて最後まで聴いた。この最後の恩徳讃は小さな声で唱和した。
 次は朗読歎異抄だ。11時21分歩き出した。唯円が親鸞に問い、親鸞が答える第9条は難しいレトリックだが、心にズシリと響く。このくだりは本当に身につまされた。先々週、喉に違和感を感じてガンかもしれないと思った。1週間以上何となく不安を感じていた。ガンかもしれないと言うものだから、とうとう家内に勧められて近所の耳鼻咽喉科を受診した。タンの切れが良くないようだとのことで薬を2,3日飲んだらすっかり良くなった。私はとにかく病気が恐ろしくて、今回も家内に一緒について行こうかとからかわれる始末だった。それに比べるとHさんは永くガント向かい、昨年9月末に検査入院をする時、ちょっと検査の間隔が短くなってガッカリしましたと言ったが、その後は一言も愚痴らしいことは言わなかった。病院の喫茶室でガンが肝臓から肺に転移し、治る見込みがないこと、後のことを宜しくと淡々と話された。この後、何度か病院で経営上の話をしたが覚悟のある人とはこういう人を言うのであろうと何度も思った。奥さんから担当医から余命半年から1年といわれたことを聞いていたので病院の帰り道涙が出た。亡くなる2週間くらい前、自宅から私の携帯に人を入れたほうがいいのではないかと言ってきた折、腰痛で2階にあがれなくなりましたと電話があった時は努めて平静を装って事務所の状況を話したが、電話が終わった時、もう駄目だと涙が止まらなかった。弱音らしことを聞いたのはこの時だけだ。経営上の難題に何度か直面したが、隣を見るといつも冷静で出来るだけのことをしてくださいと言っていつもと変わらない姿で仕事をしていた。私はふっと我に帰って大丈夫だと思い直して、経営の任にあたった。とにかく芯の強い人だった。奥さんの話では痛いとか、つらいとか一言もいわなかたそうだ。こういう人と40年、一緒に仕事ができたことは本当に幸せであったと思う。歳のせいか、一人でいる時ふっとHさんと生きてきた40年のあれこれを思い出して不覚にも涙が出る。
 一本松のベンチでくだってくる人と一寸立ち話をした。この後も朗読歎異抄を聴いた。やがて堀山の家だ。1時だ。ここでコ−ヒ−を飲んで休憩だ。コーヒーについてきた一切れのカステラがとにかく美味しかった。
 ここからは山折哲雄先生の「日本人の精神的世界」(全13回)だ。これは「祭り」だ、「世阿弥」だ、とトッピクごとに話されているので花立山荘までの一番つらいこの区間、2,3回分聴いて乗り切ろうというわけだ。集中して聴いていたがふっと顔あげたら花立山荘が見える。とにかくこの登り方が一番だ。一区切りつくまで小屋に入っても聞いていた。時計を見ると2時17分だ。大倉からの所要時間は3時間57分だ。相当な時間オーバーだが、歩ければいい。トン汁を頼んでおにぎりを一つ食べた。2時35分に小屋を出た。ここまでくればもう大丈夫だ。3時10分に山頂に出た。富士山はかすかなシルエットだ。尊仏山荘には寄らず足取りも軽く木の又小屋に向かった。中森さんも元気だ。夜は同宿のYさんと四方山話だ。
 翌朝、熟睡したようで気持ちよく目が覚めた。どこに行くというあてもない。聴くものがたくさんたまっている。久しぶりに尊仏山荘に顔を出して大倉尾根をのんびりくだりながら聴こうと決めた。花立さんはみえないが、大野さんは変わりがないようだ。「不動の清水」で顔を洗ってから大倉尾根を下る。今度は「移動と空間の世界史」(全13回分)だ。花立山荘に着いたがまだ第1回分が終わらない。ベンチで横になって終わるまで聴いていた。この調子では今回の山行で聞き終わるのは無理だ。この後、堀山の家でコーヒーを飲んで一休みをした。見晴小屋の前のベンチに座り込んで第6回分まで終わるまで聴いていたが、もうこれ以上は無理だ。残り7回分は次回の山行まで持ち越しだ。とにかく面白い。
 ここからはカンタータ歎異抄だ。前後に人がいないのを確かめては唱和する。2時20分大倉に帰り着いた。山頂を10時35分に出たから所要時間は3時間45分だ。2時間半もあれば十分なコースをこんな風にのんびりとおりてくるのもなかなか大変だ。


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