第341回山行報告 丹沢山(’05/12/24〜25)
 久しぶりの山行だ。やはり12月だ。いろいろと用事があってなかなか山に行かれない。それでも22日の給料支給でホット一息ついた。木の又小屋の中森さんから23日は法事で休むが、24日25日はやってますとのメ−ルをもらった。とにかく正月バ−ジョンの富士を撮らなければならない。
 9時10分に大倉から歩き出した。今日は吉田満「戦艦大和の最期」だ。雑事場の平、一本松と何時もと変わらないペ−スで歩いてきた。何度も聴いているが、何度聴いても涙が出る。こんな不条理があるものかと体が熱くなる。戦闘場面の凄惨さは言わずもがな、妻や子や、親を残して死地に赴かなければならなかった人たちの胸中を想像するとき涙が止まらない。その残された妻や、子は戦後をどう生きたのだろうかと今回はふっと考えた。というのは12日に荒茂子先生が85歳で亡くなったが、先生も1948年に結婚されて2年足らずでご主人はフイリッピンで戦死されたのだ。戦後60年を幼児教育に捧げられた。そんな様々のことを考えながら、ひたすら下を見て歩いている。「男たちの大和」があれば「女たちの戦後」があるのだ。それは死んでいった人たち以上に重く厳しい人生ではなかったかと思う。私の母も29歳の時、5歳の私と3歳の弟を連れて満州奉天から旭川まで引き揚げたのだ。幸い父は2年後にシベリアから帰還した。こうして我が家の戦後が始まった。3巻目が終わった。今日はこれで終わりだ。ひとしきり静寂が訪れる。

 花立山荘に到着した。壁の時計を見ると12時34分だ。大倉から3時間20分だ。体の疲れは無いが、重い話を聴きながら登ってきたので頭の中がぼんやりとした気分だ。トン汁を頼んで食事だ。1時に小屋を出た。ここからはモ−ツアルトのレクイエムだ。風が冷たい。耳当てもしているので寒さは格別のことはない。歩きやすいとさえいえる。1時50分山頂に着いた。ここも風が冷たい。早々に尊仏山荘に入ってコ−ヒ−だ。この後、表尾根をくだり木の又小屋に向かった。夜はランプの下でスト−ブを囲んで酒を飲みながら歓談だ。時折外に出てみるが冬の夜景は格別だ。9時に2階に上がる。部屋が冷え込んでいるうえ、布団も冷たいが毛布を3枚掛けてホッカイロを腰に貼り付けて寝るので直ぐに寝込んだ。
 朝は7時に起きたが晴れているがとにかく寒い。今日も何処に行くという当てもないのでのんびりとスト−ブの前で朝食を食べる。とにかくお正月バ―ジョンの富士山を撮りたい。ひとまず塔の岳に向かう。富士山が肉眼では見えるのだがどうも写真写りは心もとない。こうなると丹沢山往復だ。稜線のどこかで、何か良い写真が撮れるだろうと期待したが思わしくない。丹沢山ではベンチを前景にみやま山荘の写真を撮った。写真の本を読んでいたらシャッタ−を押す前にこの写真で何を伝えたいかを考えて押すと書いてあったが、そういわれて困ってしまう。ただ漫然と撮ったのが載せた写真です。とにかく暖かいところでコ−ヒ−が飲みたい。みやま山荘に入ってコ−ヒ−を飲んだ。若いカップルが一組だけで小屋は閑散としている。
 丹沢山からの帰途も写真を撮ったがどうもすっきりとした写真が撮れない。こんな風に書くといっぱしの写真家のようだとからかわれそうだ。この後、尊仏山荘で食事をして大倉尾根をくだって帰った 
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