第338回山行報告 大山(’05/10/23)
  土曜日朝6時半に起きると雨が降っている。がっかりしたが仕方がない。日曜日は天気がよさそうなので、日帰りで山行きだ。そんなことで土曜日は終日家で過ごした。雑多な本も処分しなければならない。未練がましく処分する前に目録を作って、読後感などを書き残しておこうと考えて手をつけているが、なかなか進まない。格別、貴重なものがあるわけではない。ただ手に取ると少し拾い読みをする。最近、細川護貞氏の死去が新聞で報じられていたので「細川日記」を拾い読みをしてなんとなく一日が過ぎた。
 6時40分家を出るが快晴だ。今日は久しぶりに大山だ。秦野駅でおりてバス停に向かうと8時45分発のヤビツ峠行きの列には大勢の人が並んでいる。蓑毛行に乗込むが、こちらも乗客は多い。蓑毛バス停から歩き出す。20分足らずで春岳沢の堰堤に着いた。ここでお湯を沸かし味噌汁をつくりおにぎりを食べる。朝食後、10時12分、のんびりと戦没学徒兵竹内浩三作品集(20回収録済)を聴きながら歩き出した。NHKのラジオ放送を並行して何本も録音しているので、山行の間が開くと聴くものがたまる一方だ。聴きながら登るとなると、通いなれた単純なコ−スが良い。そんなことでこのコ−スにしたのだ。
 作者は日大専門部映画科を昭和17年9月繰上卒業して入営、フイリッピンで戦死したという。生きておられれば、戦後、映画とか文学の世界で活躍されたであろう。60年以上も昔のこととはいえ戦争に関しては私にも様々な思いがある。私は昭和16年1月に満州奉天(瀋陽)で生まれたが当時の記憶はあまりない。私の祖父柳瀬徳三は、戦前、樺太や満州で造材請負業をしていて昭和14年に「軍部が戦争だ、戦争だ、と言っているが戦争などしたら日本はひとたまりもないぞ。事業を全部整理して旭川に引き上げるから藤吉も会社を辞めて一緒に引き上げよう。」と父に言ったそうだ。父は「八紘一宇の聖戦をなんと心得るか。親といえども許せない。非国民だ。」と大変な剣幕で祖父を怒鳴りつけたという。私は中学生の時、祖父から「自分は無学なので、藤吉を中学から大学まで東京にだして教育を受けさせたのに何の役にもたたなっかった。」と何度も聞かされた。親の不出来を聞かされるのもつらいが、こういうことがあって私は「大東亜戦争」に関心を持っようになった。
 11時4分ヤビツ山荘に着いてベンチで休んでいると丁度4回分が終わった。2回分聴いては小休止すると丁度良い。この後も聴きながら登るが、9回分を聴いたところで止めた。全20回分を一挙に聴くのは集中力が続かない。いつもは音楽を聴いて気分転換をするのだが、今日はただ戦争のことをいろいろと考えながら歩いていた。どんな気持ちで戦地に赴かれたのだろうかとふっと思った。やがて分岐に出た。ここから山頂までは10分だ。ザックをおろしてひとしきり休憩する。人の多いこと驚くばかりだ。下社から登ってくるのだろう。軽装の若い人が多い。こんな賑やかな道ではとても聴く気にはなれない。やがて12時57分大山山頂に出た。天気がいいと人が大勢だ。眼下に展望が広がる。最近、ロ−プウエイ建設の話が出ているそうだがどうなったのだろうか。大勢の人にこの景色を見てもらいたいとは思うが、ロ−プウエイは止めたほうが良いのではないかと思う。味噌汁でおにぎりを食べる。食事が終われば一人ではすることもない。ニ、三枚写真を撮ったので下山開始だ。鶴巻温泉まで歩くつもりで追分分岐から尾根通しの道をくだる。この道はあまり人影はない。木が茂ったせいだろうか「女人結界」の石碑の辺りが以前とずい分変わった感じがした。2時50分蓑毛越に到着した。ベンチで休憩していた3人の方と20分近く山の話だ。誰とも話をすることももなく何時間も歩いているとこういう時間がとても楽しい。ずい分昔のことだが、甥とここで休憩していたときベンチで休んでいた方から紅茶をご馳走になったことを思い出した。山もよし、人の出会いもよし。日没が早いので鶴巻温泉まではとても無理だろう。ここから皆さんとご一緒して蓑毛にくだった。3時25分蓑毛バス停に帰り着いた。
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