第318回山行報告 塔の岳(’04/4/10〜1)
 土日は天気がよさそうだ。家内は日曜日は千葉の姉と有楽町で会うとかでしきりと山行きを勧める。こうなると二週続けての山行きだ。大倉の休憩舎で味噌汁を頼んでおにぎりを食べてからのんびりと歩き出した。いつものように聴いている「カンタ−タ歎異抄」だ。前後に人影はない。バスで一緒だった大勢の皆さんはどんどん出発されたようだ。堀山の家か花立で大半の人達には追いつくであろう。・・・・・・・・・・・尊仏山荘ではコ−ヒ−を飲んで一休したが、小屋の主の花立さんに下に泊まりと聞かれたので飲み残しの酒を飲みに行きますと答えた。・・・・木の又小屋だ。常連の皆さんは日帰りだとかで帰った後だ。夜は先週飲み残した酒を飲んでWさん、Nさん達とランプの下でスト−ブを囲んで四方山話だ。それにしても今日はずいぶんと知っている方に会ったものだ。大倉の休憩舎では花の先生のTさん、一本松の手前ではボッカ中の尊仏山荘の小屋番の大野さん、堀山の家では花立山荘や尊仏山荘で時々会うKさん、塔の岳山頂ではSさん、尊仏山荘では木の又小屋で会うXさんだ。
 翌朝、食事の後、コ−ヒ−を飲んでのんびりと小屋を出た。大倉尾根の向うに真っ白な富士山が見えるが気温が高い所為か靄って写真にはならない。この表尾根をくだっている時、昨夜の中森さんの話が心にひっかっている。中森さんの話では戸沢出会に捨て犬がいて餌を求めて寄って来るという。そんな捨て犬を見て中森さんは餌を与えるかどうかで斎藤さんと議論をしたそうだ。痩せこけていてなまじ餌を与えてもまもなく死ぬであろうから無駄だという意見、こんなに飢えているのを見るに忍びなくて餌を与えるという意見。人の考えもいろいろある。折りしもイラクの人質問題がある。飢えや困窮している人が一人や二人なら何とかなるが何万人ものイラク人の生活の問題となると個人の力ではどうにかなるというものでもない。ただいったんそんな状況に関わってしまえば危険といわれようと、家族に止められようとどうしてもやむにやまれぬ気持ちで行ってしまうのであろう。パキスタンとアフガニスタンの辺境地区で医療活動をしている中村哲医師が登山隊の一員としてこの地に来て医療の現状を知って帰れなくなったというようなことをテレビで言っているのを聞いたことがある。正直な言葉だと思う。ただ自分にはそんな力もないし、何が出来るというわけでもない。ただ頭が下がる思いだ。此岸と彼岸との深い相克、現実と理想との深い溝、マックス・ウェ−バ−は社会科学者として真正面から取り組んだ。そんな所為か彼は晩年神経を病んだが、マリアンネ夫人に「自分の人生は重かったが、自分はよく闘った」と語ったそうだ。大学に入ったばかりの私は「マックス・ウェ−バ− 基督教的ヒュ−マニズムと現代」(青山秀夫)を読んでえらく感激をして彼の著作を何冊も読んだ。誰でもがこういう英雄的な生き方が出来るかどうか難しいと思う。自分ひとりが生きるのが精一杯な所が正直なところだと思う。

「真宗の教えは、道徳に基づいたものではありません。阿弥陀仏は、人間は弱いもので、貪欲(むさぼり)、瞋恚(いかり)、愚痴(おろかさ)あるいは利己主義といった煩悩を具足していて、ごく少数の人しか本当の道徳的生活を送れないことを百もご承知なのです。凡夫としての人間の本性のかくも深い理解を仏智と呼び、弱く罪悪の存在である払たちを救おうという阿弥陀仏の意志を仏の大悲と称します。それゆえに、仏教は道徳律-例えば善悪の区別-に基づかない、智慧と慈悲とに基づく宗教なのです。」(シトク・A・ペ−ル「浄土真宗とキリスト教」)
今はこういう真宗の教えに自分の救いを見付けている。身の丈にあった生活をするという平凡な結論にたどりついた。

 三の塔の登りきった所に小さな地蔵があるが,見ると毛糸の青い帽子を被っている。誰かが時々代えてくれているようだ。比較的新しいお地蔵さんでどんな経緯があってここに安置されたのか知らない。出来ることをしてくれれば良いよと言っているようだ。三の塔で小休止の後、三の塔尾根だ。若い女性が標識を見て戸惑っている。標識には戸川とあるからだろう。大倉におりられますよと声を掛けて相前後して歩いた。
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