独り言

 ☆ 岩井教授はFRBパウエル議長の金融政策についての姿勢に憂慮しておられたが、2月27日の日経夕刊に「米財政は「持続不可能」」、「FRB議長迫る債務上限に警鐘」とする記事が掲載されたのでご紹介します。

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 パウエル議長は米上院銀行委員会証言で「連邦政府債務が持続不可能な路をたどっていることは、広く認められることだ」と、述べ、議会に財政再建を急ぐように求めた。

 米連邦債務は残高が22兆ドルと過去最大で、トランプ政権の大型減税で財政赤字そのものが拡大している。パウエル氏は「経済成長率よりもかなり速いスピードで政府債務が拡大している」と指摘したうえで「歳出の削減と歳入の拡大が、ともに必要だ」と主張した。

オカシオコルテス下院議員ら急進左派はFRBにインフラ資金を拠出するよう求めるが、パウエル氏は「中央銀行は雇用の最大化と物価の安定のためにあり、特定の政策を支援するものではない」と明快に否定した。

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 上記は全て新聞記事の書き写しです。一読するだけでなくこうして書き出すと記事の内容がよくわかります。それにしても我が国の黒田日銀総裁とは際立った違いがあります。黑田総裁は経済政策を財政政策だけにおわせるのではなく金融政策も担うべきだと考えているようです。さらにこういう開放経済下では経済理論が教える要素価格均等化定理によれば物価2%UP等は出来る話ではないと考えますが、以前、読んだ東洋経済誌の特集「知将の誤算」でかっての大蔵省での同僚が、この指摘をしたところ、まだそんなことを言っているのかと一笑に付したそうです。(2019/3/1記)


☆ 今週の東洋経済誌(2019/2/23号)にEUからの離脱を巡ってイギリスの国内事情を伝える論評が二本掲載された

★ 刈谷剛彦オックスフォ-ド大学教授が経済を見る眼欄に「優先すべきは国の形か、経済か」と題する一文を寄せている。

 経済へのダメ-ジが国民の目にこれだけはっきりしているのなら、再度国民投票をすれば、EU離脱という1回目の結果は覆るのではないかと思えたからだ。

 この「なぜ」に答えたのが、1月21日の首相演説であった。
「2度目の国民投票は、われわれが国民投票をいかに扱ってゆくかといことに対して、困難な前例を作り出してしまう。そればかりではなく、連合王国の統合をバラバラにしようとする政治勢力に手をかしてしまう」というのだ。カギとなるのは、「「困難な前例」となるをつくることへの懸念である。

★ GLOBAL EYE欄にクリス・パッテンオックスフォ-ド大学名誉総長の「英国を狂わす大英帝国の亡霊」と題する論評が掲載されている。

 EU離脱をめぐる2016年の国民投票で離脱を支持した労働党支持者は少数派でしかなかったということだ。

 保守党では党員の高齢化も進んでいる。国民投票では高齢者の多くが離脱を支持したが、若い有権者では残留支持が圧倒的であった。このため離脱優位の状況はすでに崩れているという分析も出ている。

 典型的な離脱派がロンドン以外に住むイングランド人だった点も見逃せない。スコットランドと北アイルランドでは過半数が残留を支持した。ということは、離脱の背景には経済的な不満よりも、もっと別の大きな要因がひそんでいるようにおもえてならない。保守党を支持する高齢者の国粋主義的な不満のほうが、ずっと濃い影を落としているのではないか。

彼らには、不法移民や気候変動など英国が直面する大問題に対処するには国際協調が欠かせないということが理解できないのだ。

経済の安定と国際的な影響力を犠牲にすることなくEUを離脱できると信じているものが多いが、そんなものは幻想だ。

再度の国民投票を求める議員も増えている。

 離脱そのものへの風当たりが強まるのを目にした強硬派の中には、離脱を阻止されてはなるものかと議会の一時閉鎖を触れ回る勢力まで出始めている。
 
★ 刈谷教授が紹介しているメイ首相の演説は「国の形か、経済か」ということだが、その本質は国民投票に踏み切った首相自身の立場の養護であり、再度の国民投票に踏み切った場合の自己の政治的な危機を心配してのことと思われる。クリス・パッテン オックスフォ-ド大学名誉総長は保守層の一部過激派の政治的な暴走を民主主義の危機と言って憂慮しているのだ。EUから離脱したところで、何等、直面している問題の解決は出来ないし、むしろ雇用を奪い、経済苦境を招く恐れがあるという指摘だ。

 「恒産無ければ恒心なし」といわれるが、国民が安心して食べて、暮らせることが政治の要諦であると思う。そういう観点からはクリス・パッテン名誉総長の論説は正鵠をえていると思う。(2019/2/21記)
 ☆ youtubeで朗読を聴く

 私は何時の頃かはっきりとした記憶はないのですが、NHK・ラジオ第2放送で歴史、文学、詩歌等の「カルチャ-講座」、「朗読の時間」、「日曜講演会」を聴くことを楽しみとしていました。とりわけこれらの放送をmp3フアイル形式で録音できる機器が出てからはこれらをIPOD等のモバイルの機器で聴いていました。

3か月12回の連続講演の「移動と空間の世界史」「近代日本の外交の歩み」「イギリス映画論」「心医者入門「」芥川龍之介」「関ヶ原合戦」「毛利元就の手紙」、朗読の「親鸞」「煙管」「馬糞石」「葦声」等は今でも記憶に残っています。

カセットテ-プでは「戦艦大和の最期」、「太平記」「歎異抄」「遠藤周作講演集」「鈴木大拙講演集」「筒井康隆「誰にでもわかるハイデッガ-」等です。
これらのカセットテ-プはその後、音楽ソフト「デジオン」、ケ-ブルを用意し、mp3フアイルに変換して保存してあります。

 CDでは「断腸亭日乗」「吉本隆明講演集」「幕末史」「日本の名作1」日本の名作2」、「小林秀雄講演集」「奥の細道」「歌舞伎名セリフ集」等です。

 私は中年になってから山登りを始めましたが、当初は夢中で歩きました。夏は百名山を目指して遠出をするのですが、普段は丹沢や奥多摩です。その丹沢ですが何度も何度も歩いていますと金曜日に明日は山行きだと思ってもどの道を歩くか考えるのも面倒となって惰性で渋沢から大倉となるのです。大倉となると考えるまでもなく大倉尾根、塔ノ岳、木ノ又小屋泊りです。この大倉尾根など4時間の山道ですが見晴小屋で一休みし、堀山の家でコ-ヒ-を飲んで、花立山荘でトン汁を頼みおにぎりを食べる毎回決まりきったスタイルです。ただ時々この4時間が退屈で耐えられなくなりました。それなら登らないのがいいのですが、4時間の山道を登って山頂に立った時の爽快感は何物にも代えがたかったのです。

 この大倉尾根ではIPODに入れてあるこれらの作品を聴きながら登りました。
吉田満「戦艦大和の最期」は大倉尾根で初めて通して聴いたのです。4時間の退屈さが吹き飛んでしまったのです。途中からは涙が出て止まりませんでした。下山してくる方に顔を見られてはと思いひたすら下を向いて登りました。

 下山時の林道歩きは退屈そのものです。一度慌てたことがありました。「歌舞伎名セリフ集」(全3巻)「白波五人男」を聴いていた時、前後に誰もいないのでつい声を出して真似をして歩いていたのです。ふっと気が付くと登山者が追いつてきていたのです。「勧進帳」などは難しくて声も出ませんでした。

 この正月休みは風邪気味なので早めに床についてipadでyoutubeでいくつもの朗読を聴きました。今昔の感があります。

坂口安吾「織田信長」、「太平記」(尾崎士郎現代語訳)、「歎異抄」(朗読三国連太郎)、山本周五郎「ひやめし物語」「おしゃべり物語」「粗忽評判記」等は皆様にお勧めします。(2019/1/3記)
☆ 司馬遼太郎原作「最後の将軍 徳川慶喜」(松平定知アナ 全7時間)の朗読を聴く

  以前、ラジオの朗読(連続)で藤沢周平の「三屋清左衛門残日録」を聴いた。そんなことでyou tubeで「朗読 藤沢周平」で検索したら藤沢周平の作品がたくさん載っていたので驚いった。行儀は悪いが就寝前にipadを利用して寝床で藤沢周平の作品をいくつも聴いた。文庫本などは活字が小さくてとても読めない。流石、流石と興に乗って山本周五郎の「日本婦道記」を始めとするいくつかの作品、池波正太郎の「鬼平犯科帳」、「剣客商売」、野村胡堂の「銭形平次捕り物帳」、岡本綺堂の「半ヒ捕り物控」とネットに載っているものは全て聴いた。この後、芥川龍之介で検索したら、私がラジオから録音しmp3形式でHP に載せている「煙管」まで聴くことができるではないか、これまた驚いた。

 その折、画面の右にNHK カルチャ-司馬遼太郎原作「最後の将軍 徳川慶喜」の朗読の案内を見た時は驚ぎを通り越して欣喜雀躍のの思いであった。NHK ラジオで大晦日三が日にかけて朗読を放送している。何年か前、百田尚樹「海賊と呼ばれた男」を聴いたことがあるのでこれだとばかり聴いだ。松平定知アナの朗読で全7時間近く四晩かけて聴き終えた。半藤一利「幕末史」(CD)を聴いているので興味津々だ。徳川慶喜側からの幕末史だ。とりわけ第4回は始めて維新後の徳川慶喜の生活を知ったが面白かった。多面的な側面から歴史を知り、人物を知ることが大事だと痛感した。

 学生の時、福沢諭吉の幾つかの著書を読んだが、とりわけ「痩我慢の説」で幕臣であったにもかかわらず新政府に仕え伯爵の爵位まで得たということで、三河武士の意地はどうしたということ、またべらんめい調の話しぶりで「オマエサン、ナンダネ・・」と言った話を読んで何となく心よく思っていなかった。
半藤一利幕末史(CD)を聴いて幕末期における活躍や抱負経綸を知って評価を改めた。この後、電子出版で勝海舟「氷川清話」を読んだが、新政府の中に入らなければ頼みごとに来る旧幕臣たちの面倒を見れないといったことを知ったが成程と思った。

 何はともあれ徳川慶喜が、後年、明治天皇、皇后から皇居に招かれ反物の引き出物をいただき、帰途、その報告に勝邸に立ち寄ったことなど、この朗読と「氷川清話」、「幕末史」と読まれたり聴かれたりすると面白いこと請け合いだ。(2018/10/21記)

https://www.youtube.com/watch?v=PXZJeQAO6dQ

 ★ 人形浄瑠璃文楽の人間国宝で文化勲章受章者の七世竹本住大夫さんが4月28日に逝去されたことを新聞で知りました。

「江戸時代から変わらない人を思いやる気持や喜怒哀楽といった「情」を70年近く語り続けた」と記事にあります。

 私はこの分野には全くの門外漢ですが、竹本住大夫さんの、10年も前でしょうかNHKラジオで「話芸の力」と題した講演を聴いて深い感銘を受けました。

 このお話を聴いたことがキッカケで大田区民プラザで人形浄瑠璃文楽の公演があった折には出かけましたし、豊竹山城少掾のCD公演集をMPプレイヤーに収録して丹沢の山道で聴いたこともあります。

 私はこの竹本住大夫さんの「話芸の力」はHPに載せて何度も聴いているし人様にも勧めています。雑音交じりですが興味のある方は下記をクリックしお聴きください。

  竹本住大夫「話芸の力」

 ★ 「財政破綻、誰も言わないなら私が言う」(真山 仁)を読む
 
7日米欧回覧の会の新年会があり出席させていただきました。高校時代のクラスメートの畠山君がこの会の会員で私は会員ではありませんが、彼に声をかけていただいてこの会の部会の一つであるグロバール・ジャパン研究会に出席してお話を聞かせていただいています。

 開宴の挨拶は泉三郎理事長、乾杯の音頭は芳賀徹東大名誉教授でした。二人のお話で岩倉使節団がイギリスからフランスに渡ったくだりでは、私は聞いていて中西輝政先生の「大英帝国衰退史」に書かれていたことをあれこれ思い出したのです。

 1776年ギボンは「ローマ帝国衰亡史」を出すのですが、仏語で書くか、英語で書くか、迷ったとき友人がこれからはイギリスが世界の中心となるのだと言って英語で書くことを勧めたというのです。やがてイギリスは覇権国として世界史に登場してきました。

この時代、あまり料理に関心がないというイギリスでもグルメブームがあったなどという記述を読むと驚きました。

 岩倉使節団がイギリスを訪れていた1872年、英国は世界の覇権国として輝いていたのですが、やがてアメリカ、ドイツが台頭してくるのです。イギリスは1899年から1910年にかけてのボーア戦争を境として、第一次世界大戦、第二次世界大戦と停滞の時代に入ります。イギリス経済は「デフレと失業」に苦しみました。ケインズはこういうイギリス経済への処方箋として「雇用・利子および貨幣の一般理論 」を書いたのです。第二次大戦後、何度も改革に取り組みますが、ことごとく失敗します。「私は女ですから殿方のように後ろを振り返ることありません」と言ってマーガレット・サッチャーが首相に就任しました。ロンドンの下町の老婆さえ、こういう時はサッチャーに任さなければいけないと父や母が言っていたという記述を読んだときはさすがと驚いきました。

翻って現在の日本はどうでしょうか。1/3朝日新聞に「財政破綻、誰も言わないら、私が言う」という作家真山仁氏へのインタビュー記事が掲載されていました。国の債務が1千兆円超となっても「見ざる」、「聞かざる」、「言わざる」というのが、日本人の大多数であるとしたら私のような年寄りでも心安らかではいられません。
★ 道徳教育を考える

 最近の森友学園問題で教育勅語がにわかに話題となり、文科省もその徳目を学校教育に取り込むことには何ら問題がないというようなことが報じられていました。

 私が高校を卒業する前後の頃(昭和34,35年頃)、道徳教育を学校教育に取り入れるということが提起され、小学校で道徳という授業がもうけれました。私は「道徳教育に反対する」一文を書いたことがあります。お笑い種ですが、この頃から私は社会問題に関心がありました。

 この問題に関して、少し前、朝日新聞で加藤陽子東大教授の論説を読みましたが、改めて深く考えさせられました。

「戦後日本が培った原理に、「私的領域」と「公的領域」の明確な区別があります。近代立憲国家として必須のこの原理に、安倍政権は第一次の時から首相主導で手をつけ始めました。・・・・・略・・・・・・・・・
 明治の日本が学んだ西欧の憲法は、過去の宗教戦争の惨禍に学び、国民の思想や信条に国家の側は介入しないという良識を確立していました。だから、教育勅語という精神的支柱の必要性が説かれたとき、明治憲法の実質的起草者だった井上毅は「君主は臣民の良心の自由に干渉」すべきでないとして反対しました。結局、教育勅語は出されましたが、国務大臣が副署しないことで、政治上の命令でなくなった。国家は国民の「私的領域」に立ち入るべきではないとの良識が、この段階では保たれていたのです。・・・・・略・・
 問題は日清、日露の戦勝で天皇の権威が高まった昭和戦前期に起きました。軍部は国家不振の原因を政党と財閥のせいにして、対外的な危機感をあおり国民の人気を得ていきました。軍部の意向を忖度した政治家やメディアもまた、教育勅語を軸に「国家が望む国民像」づくりに加担しました。」

 加藤陽子教授は日本の近現代史の研究を通して得た知見から問題がどの辺にあったかを指摘されるのです。軍部だけが間違えたのではないのです。軍部の意向を忖度したメデアであり、政治家であり、さらには深く考えることなく軍部を支持した広範な国民大衆なのです。

私が学生の時読んだマックス・ウーバーもこういう特定の徳目を宗教がくり返し教え込む問題点を指摘していました。明治の啓蒙思想家福沢諭吉が道徳教育をどんなふうに考えたかは知りませんが、福沢諭吉が生涯を通じて主張した思想の主柱である「独立自尊」という根本的な理念を考えれば答えは明らかだと思うのです。近代社会の根底とも言うべきもは「個の確立」であり、「個の確立」ということは福沢諭吉の言葉で言えば「独立自尊」ということです。自分で考えるという強靭な精神を有する人間を育てることが大事だと、福沢諭吉は主張したのです。これがなければ一国の独立もないとも主張したのです。私は福沢諭吉の独立自尊といことをこういうふうに考えるのです。福沢諭吉は1901年に没していますが、こうして100年以上経た現代でもまだ超えることができないのですから考えさせられてしまうのです。

 私は福沢諭吉と先生の敬称も付けずに書いてしまいましたが、学生の時、「福翁自伝」を読んだときはその精神の溌溂たる躍動感というか、とにかく感動しました。付け加えますと福沢諭吉の戒名は「大観院独立自尊居士」です。
 ★ 憲法9条を考える
 
総選挙も終わって、連日、憲法改正の記事が新聞を賑せている。とにかく、安倍氏が政権を担ってから憲法改正の問題が政治の大きなテーマとなりだした。

 これまでの歴代の保守政権が憲法9条に最初から考え貫いて対応してきたかどうかは分かりませんが、政治的に極めて巧妙な対応をしてきたと思うのです。

 というのは九条に盛り込まれた「戦力」という概念を二つの領域に分けて考えたのです。一つは「他国を侵略する戦力」であり、二つは「他国からの侵略に自国を守る戦力」であると。

 朝鮮戦争という東西冷戦の勃発時にアメリカからの再軍備の要求がありましたが、当時の日本の歴史的な状況下では憲法を変えることは国民の合意を得られなかったと思うし、また日本の当時の国力からもできな話であったのです。そこで吉田首相は意図したかどうかは別としても憲法9条にいう「戦力」という概念を前述のごとく「他国を侵略する戦力」と解釈し、これは放棄するが「他国からの侵略に自国を守る戦力」は当然の権利であるとして憲法を変えることなく、この論理であれば憲法に反しないという論法で自衛隊(SelfDefenceForce)を創設したのです。高度な政治的な判断であり優れて政治的な知恵であったと考えます。私はやむをえざる判断であったかと思うのです。今日においても妥当であると考えるのです。

 このほかに私が憲法9条の改正に反対する理由は幾つかあります。

1.9条を改正したいという理念は何のでしょうか。私は学生の頃、岩波の憲法問題講演会で我妻栄先生の講演を聴いたことがあります。

先生は日本の民法が独法や仏法の継ぎはぎで作り上げられて来たため体系が一貫していないという問題点を指摘され、その結果、法の理念があいまいとなっているということを話されました。日本国憲法は文言の表現が英文直訳であったとしても問われるべきはその根本理念であり、日本国憲法は「平和の希求」という立場で一貫していることを指摘されました。時代の変化もあろうし、絶対に変えてはならないということでもないのですが、ただ問われるべきは法の理念というこの碩学の指摘が今なお重く私に問いかけているのです。

あれほどの悲惨な戦争の惨禍を近隣諸国に与え、国民もとたんの辛苦を体験した中から「平和の希求」という理念で作られた日本国憲法の主柱ともいうべき9条を簡単に変えてよいのかどうかと考えるのです。変えたいという根拠が「普通の国にする」、「戦後レジームの脱却」などという理由では昭和の戦争の歴史を学べあまりにも薄弱すぎると思うのです。

2.現在の日本の置かれている国際的な状況です。戦後日本は自衛隊を「自国を守るための戦力」と一貫して主張してきたからこそ近隣諸国にも受け入れられて来たと思うのです。

3.中国、北朝鮮と日本を取り巻く国際情勢は複雑なものがあります。私見ですが中国はこれから政治的にも不安定で経済的にも長期停滞に向かうのではないかと考えます。そいう習近平体制下の中国に対峙するには米国との安保条約は日本にとって欠かせないのです。その米国との同盟上に欠かせない安全弁が憲法9条の存在なのです。米国からの過度な防衛力への要求には九条は防波堤になるのです。


4.国連のPKOの派遣などで憲法9条の制約を懸念する意見もあります。日本の置かれた国際的な立場からも、また、国際貢献のためにも九条の改正が必要だとする意見です。しかし、憲法9条に言う「戦力」を「他国を真略する武力」と考えるわけですから矛盾はしませんし、日本が世界の平和に貢献するためにも自衛隊の派遣は避けて通れないないのであり、そういう道をとってきたわけです。国民感情から容易ではないかもしれませんがが、国際的な平和への貢献は求められます。その際には、当然、高度な政治的な判断はさけてとおれません。

5.現実的な観点からもこれ以上の防衛費の負担は可能なのでしょうか。人口の減少が顕著な今日、自衛隊の人員増加は可能なのでしょうか。さらにより高い観点から考える必要があります。現在のように経済がグロ--バル化している今日戦争などできるのでしょうか。

  以上のように考えますので私は憲法9条を加憲であれ、なんであれ改正することは反対です。(この論考はもう少し手を加えて一編の論文に仕立てる予定です)
(2018/9/16加筆)
★ グランドシンポジウム 「岩倉使節団の世界史的意義と地球時代の日本の未来像」を聴講して考えたこと

 米欧亜回覧の会が主催する設立20周年記念グランドシンポジウム「岩倉使節団の世界史的意義と地球時代の日本の未来像」が2016年12月2日(金)~4日(日)と東京神田一ツ橋にある学術総合センターで開催された。この会の会員である高校時代のクラスメートの畠山君に誘われて聴講した。

 鎖国から開国へ、日本は大きく舵を切った。下地が全くの白紙状態でこの転換期を迎えたわけではない。江戸期の洋学といえば杉田玄白、前野良沢、佐久間象山、緒方洪庵達先人の名前がすぐに浮かんでくる。「福翁自伝」(福沢諭吉)、「氷川清話」(勝海舟)を読むと借用した蘭書を3日3晩で筆写した話など、その知識欲の旺盛さには驚くばかりだ。半藤一利先生の「幕末史」を聴いて知ったのだが、ペリーが浦賀に来航したとき応接した浦賀奉行の与力筆頭カヤマエイザエモンが、艦隊参謀長に「ところで貴国の大陸横断鉄道は出来上がったのでしょうか」と尋ねてアメリカ側を驚かせたというのだ。この他、幕末期にはすでに大勢の日本人が留学している。各藩から選抜された優秀な人材だ。新島襄などは単身でアメリカにわたっている。これらの人達は四書五経に始まる漢籍の教育を受けている。江戸期の教育について、以前、NHKのカルチャーラジオで3ヶ月聞いたことがあるが、並々ならぬものがあった。

 学術用語を始めとしてさまざまな言葉を日本語に置き換える過程には漢学の永い歴史というバックグラウンドがあったのだ。それでも話は簡単ではないのだ。そういうことで森有礼のごとく英語を国語とすべきだという極論もでてきたと思います。例えばフイリッピンではアメリカの植民地であっただけではなく、様々な言葉を自国語に置き換えるという、その受け皿の基盤というか文化、具体的に云えば言語体系が欠如しているのだ。そういう次第で今日のかの国の学校教育はすべて英語の教科書を使わざるを得ないのだ。

 岩倉使節団に随行してこの使節団の記録を書いたのが佐賀鍋島藩出身の久米邦武だ。芳賀徹先生は久米邦武の漢籍の深い素養が米欧回覧実記の随所に読み取れるということを話された。

 とにかく全く異なる西洋文化に遭遇するのだ。そのインパクトは大変なものであったと想う。昭和43年頃、NHKテレビで「明治100年」と題するドキュメンタリー放送があったが、西洋文化の移植に当たっての並々ならぬ苦労を見た。小林秀雄は云う。
「日本は何時も学問が外から押し寄せてきてそれと闘わなければならない国なのです」
日本はこうして外から取り入れた文化を永い時間をかけて消化、吸収して自家薬篭のものとするのが伝統だ。


 会員報告の「知られざる岩倉使節団の群像」で取り上げられた人物は下記の通りだ。

安場保和、団琢磨、金子堅太郎、山田顕義、林董三郎、長与専斉、井上毅

新島襄、田中不二麿、渡辺洪基、女子留学生(上田悌子(16歳)、吉益亮子(14歳)、山川捨松(11歳)、永井繁子(10歳)、津田梅子(7歳))、吉原重俊、田中光顕

 畠山君の報告「女子留学生」は会場が分かれていて聞くことが出来なかったが、レジメを読んで考えたことは文化の相克ということだ。英語と日本語という単なる語学の問題ではない。男子はそれなりの漢学の教育を受け自己のアイデンティテイ-を確立していたと考えるが、女子留学生の場合は如何であろうか

 女子留学生は上田悌子(16歳)、吉益亮子(14歳)、山川捨松(11歳)、永井繁子(10歳)、津田梅子(7歳)の5名だ。上田、吉益の2名は体調を壊して8ヶ月で帰国している。残る3名の年齢を見てください。

 畠山君のレジメを読むと津田梅子の場合は帰朝後の就職問題に日本語があったという。そうだろうと思う。アイデンテイテイーが確立していれば、反発があるとしても主体的に評価し対応することができるであろうと思う。なければ主体的な評価もなく直に受容するであろうが、問題はその後だ。津田梅子は帰朝後日本人であって日本人ではないという葛藤が生じたのではないかと想像する。

 明治の日本人は「和魂洋才」という言葉でこの相克に立ち向かったのだ。問題はその「洋才」が、単なるツールにとどまらず、やがては「和魂」の根底を揺さぶり始めるのだ。社会を揺さぶりだすのだ。文化の根底に大きな影響を及ぼしだす。

 このシンポジウムではとにかく外国語(英語)の重要性が強調されていた。グローバルな世界ではもっともなことだと考えるが、ただ日本人のアイデンテイテイ-というか、そのよって立つ精神的な基盤によほど心しなければ世界で尊敬される日本人にはなれないと思う。ただ表面的な英語を話すだけで済む話なのだろうか。

 3日目のパネルデスカッションで芳賀先生が外国語教育と同時に日本の古典を読ませる必要性を指摘しておられてほっとした。表面的な英語を話すだけで中身がない人間では日本社会のみならず、世界でも相手にされないのではないかと思うのです。こういうことでただ古典を読ませる教育だけに収まらないと思うのです。日本の文化や社会の精神的な基底を理解して「自ら考え、自ら調べる」という主体的に生きる人間像が地球時代の日本人の生き方ではないかと考えるのです。

 事務所で暇な身に任せてこんな一文を書いてしまいました。私がとにかく言いたいことは英語の大事なことはわかりますが、その以前にもっともっと大事なことがあるのではないかということです。(2016/12/9記)
 ★ 「米欧回覧実記」と久米邦武のこと

 「天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関する行事が1年間続きます。「こうした事態をさけることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。」(天皇陛下のお言葉)

 殯(もがり)は天皇が崩御したとき「天皇霊」を次代に引き継ぐため、ご遺体を長期間安置する儀式だ。古代ではその期間が長い場合に秩序安定を損ねる場合があった。持統天皇以降は崩御を前提とした皇位継承ではなく、女性もフル活用しながら、譲位による安定した継承が恒常化していった。これらの努力は明治維新で水泡に帰す。明治政府は西欧のような一神教の宗教組織に倣い、天皇を現人神とする一神教的国家神道をつくりあげた。」(東洋経済誌’16/11/19号コラムより引用)

 「(明治憲法下と現行憲法下の天皇のあり方を比べ)日本国憲法下の天皇のあり方のほうが天皇の長い歴史でみた場合、伝統的な天皇のあり方に沿うものと想います。」(天皇陛下の記者会見でのお言葉)

 明治維新を経て近代社会に登場する日本は明治憲法下で天皇制についての規範(たとえば皇室典範等)を統治上の制度として制定したのです。

「天皇陛下のお言葉から」感じられるのは天皇の在り方まで変えてしまった維新の宗教改革=明治レジームへの鋭い批判ではないか。

 ここで私は「神道は祭天の古俗」という歴史研究の当然なることを主張した久米邦武のことを考えるのです。偶然とはいえおりしも本年は岩倉使節団が欧米に派遣されて150年、この岩倉使節団の見聞報告である「米欧回覧実記」を書いたのは久米邦武です。

 「久米邦武(1839-1931)は、日本近代史上、いわゆる「神道祭天古俗」事件として名をとどめているものの、これまで”忘れられた歴史家”のひとりといってよい。もっと正確にいえば”忘れさせられた歴史家”というべきか。それは右の事件が、明治国家確立期における近代天皇制のイデオロギーの根幹に関わっており、それゆえにこそ彼が官学アカデミズムを追放された、ということと密接に絡んでいるからである。・・・・・久米邦武は、明治42年(1909)、満70歳で多くの後輩におくれて文学博士の学位を与えられた(博士会推薦)。このようなひどい逆境に寛容に対処して、その後半生は(大学追放後)、ゆるぎなく自己の史学を展開し、国史アカデミズムから独自の路線を歩んだ。」(久米邦武著作集(全5巻)別巻「久米邦武の研究」大久保利謙編)

 私の勤めている事務所は、50年近く久米邦武のご子孫(3代目、4代目)が経営されている会社に関係しています。かような次第で私は原先輩と担当になった50年前から「米欧回覧実記」、「神道祭天古俗」(神道は祭天の古俗)論は知っていますが、久米邦武著作集全6巻は一寸の拾い読みです。有識者の会合で天皇の退位が議論されているのですが、今生陛下のご叡慮に満ちたご意思や「忘れさせられた」歴史家久米邦武の深い学識も今一度熟慮されてしかるべきではないかと考えます。

 高校時代の友人の畠山朔男君が「米欧回覧の会」に関係しています。この会が岩倉使節団の派遣150年を記念してこの12月2日(金)3日(土)4日(日)と「岩倉使節団の世界史的意義と地球時代の日本の未来像」と題するグランドシンポジウムを開催します。参加人員にはまだ余裕があるようですのでふるってご参加ください。詳しくはコチラをご覧いただきお申し込みください。
('16/11/14記)
 ★ 週刊東洋経済誌’16/10/1号の特集「経済の新常識・・・今の日本を総括検証」を読んだ。中でも、「経済学の歴史」と吉川洋教授の「経済学は危機に瀕している」の2編は読みごたえがあった。

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 「アベノミックスをどう評価すするかだが、その主な対象は金融政策だが、貨幣数量説そのものだ。問題はゼロ金利以下でどうなるかということだったが、98年に出たポール・クルーグマン(’08年ノーベル経済学賞)の論文が大きな影響を影響を与えた。彼はゼロ金利下であったとしてもマネーをたくさん出せば、人々の間に物価が上がるという予想が生まれ、結果的に現実の物価を押し上げると主張した。黒田日銀はまさにそれを実践した。」

 「1970年代以降マクロ経済学が大きく変わった。一言でいえば「マクロのミクロ化」だ。ケインズ経済学は完全に忘れ去られた。今の主流派経済学は「国全体のことなど考える必要はない。あるのはミクロの問題だけだ。」

 「今の経済学は変わらないといけない。世界の権威がいつまで天動説を唱えているのか。経済学はもっと現実と向き合うべきだ。」

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 ロバート・ルーカス(95年ノーベル経済学賞)、エドワード・プレスコット(’04年ノーベル経済学賞)達は代表的な企業や個人は、自己の利益に最適な行動を取るという前提をもとに数学を駆使して綿密に理論を組み立てる。それでも私は経済学は政治経済学でなければならないと考える。
 この2編を読んで、とても面白かった。10/4  朝日新聞の編集委員原真人記者の「日銀総括検証 「リフレ派」敗北の先は」という論説が目に留まった。黒田総裁がポール・クルーグマンの理論が日本経済にどれだけ当てはまるのか考えておられたのだろうかと、気に掛かる。

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 「なぜ物価は上がらないのだろう?」。就任から数カ月たったころ、黒田総裁は外部の識者たちを招いた非公式の会でそんな質問をぶつけた。その場にいた一人は振り返る。「総裁は、すぐに上がると思っていた物価が上がらず不安になったのだろう」
 そんな不安を隠し、強気で緩和路線をひた走ってきた日銀だが、ここへ来て軌道修正に乗り出した。総括検証の際に、緩和基準をお金の「量」から以前のように「金利」に戻すと決めたのだ。

 金融緩和による景気浮揚はしょせん将来需要の「前借り」にすぎない。人口減少、超高齢化の社会で前借りが過ぎればどうなるか。ツケの返済に追われた日本経済の未来はけっして明るくはない。
 市場と政権にからめとられた日銀は、もはや自らの判断で緩和を止められなくなってしまったようだ。そうなると、「緩和の罠(わな)」から抜け出せない日銀そのものが、今や日本経済を長期低迷に陥らせる最大の原因と化してしまったと言えないか。

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 「なぜ物価は上がらないのだろう?」という就任後まもなくの黒田総裁の疑問が気にかかる。どれだけ日本経済の現状(少子高齢化とか非正規雇用が何故増えるのかとか、人口減少等々)をどれだけ把握しておられたのだろうか・・・・・・・・・
(’16/10/5記)
 ★ 安倍内閣の財政政策について
 事務所にいてもニ、三の用事をするだけ暇なものだからついついPCでネット(東洋経済オンライン版等々)を見てしまう。どの論者も日本銀行のとる金融政策が行き詰まっているという。しかも打つ手打つ手が悪手のようだ。足元を見透かすように、ついには国債が売られ長期金利が上昇し始めた。もともと株式市場とか為替市場はとらえどころのない世界であり、究極のところはフアンタメンタルズに規定されるとはいううものの本当のところは予測のつきにくい世界といえるのではないかと思う。
 その金融政策が行き詰まれば今度は財政政策だ、とばかりに第三次安倍内閣は大型の補正予算の出番を策す。朝日新聞に編集委員の原真人記者が「財政ファイナンス 「アベノミクスをふかす」(2016/8/2)で、この補正予算の問題の本質は予算の規模の問題ではなく、「そのことの深刻さ」であるいう。経済は完全雇用の状態にあり、国の債務はGDPの200%を超え、人口の高齢化は著しい。どんなに成長策を講じても1%に届かない。やるべきことは別のことではないかと思う。原記者は「次の調整はおそらく90年代の失敗どころではすまなくなる」と憂慮しておられる。おりしもIMFからも「世界経済の見通し」が出され、我が国にも消費税の15%の段階的な増税策が提言されている。私のごとき一市井の老人が心配しても始まらないが、政府や与党の中にこの経済政策に問題ありと声を挙げる人がいないのであろうか。(2016/8/3記)
 ★ 安倍首相は岸元首相の孫だ。岸元首相のことで記憶に残っていることがある。

 大学を出たばかりの頃か時期ははっきりしないが、とにかく安保騒動が一段落して首相の座をを退かれた頃の話だ。

  NHKラジオの政治家に聞く回顧のような番組でインタビュアーに「どんな人が政治家(首相)に望ましいか」と問われて、「晋太郎(毎日新聞政治部記者出身)や六(田中六助、日本経済新聞社政治部記者出身)などではなく大新聞社にいて国政全般を観てきた人」と答えられた。私はこのNHKラジオ放送を聞いたとき驚いた。ご自分の娘婿であるだけ、割り引いて聞かねばならぬとしても少し前まで、保守反動の権化のように世上、喧伝されていた人の言葉とは思えなかったのだ。それと同時に大新聞社にいて国政全般を観てきた人と聞いたとき咄嗟に緒方竹虎(元朝日新聞社社長)のことが脳裏浮かんだ。

 私は安倍晋三首相がこれまで増税再延期についてあれだけ天下に公言をしていながら公約を反故にする、こういう人物が日本の首相にふさわしいとはとても思えない。麻生財務相が、再延期に反対して「宰相になるか、ポピュリストになるか」と迫ったそうだが岸元首相が存命であればどう考えられるであろうか。(’16/6/13記)  
 ★ オバマ大統領が被爆地広島を訪問することについての塩野七生さんのインタビュー記事を読む。

「謝罪を求めず無言で静かに迎える」という話に本当にそうだと思った。声高に謝罪を求めるということになると、真珠湾はどうだとなり、そうすると次は石油禁輸はとなり、満州事変は・・・・・・と際限のない話になるのではないかと思う。

 とにかく 「星条旗を振りながら歓声ををあげて迎えるのは、子ども達に任せましょう。」、大人達は無言で静かに犠牲になった人々に二度とこんなに酷いことが起こらないように努力しますと誓いましょう。 オバマ大統領の広島訪問が世界から核兵器をなくすという一歩になればと願うばかりです。

このインタビュー記事をよんでいて見落とせない箇所があった。

「少し前に、アジアの二つの強国のトップが、相前後してヨーロッパ諸国を歴訪したことがあります。その際にこのお二人は、訪問先の国々でまるで決まったように、日本は過去に悪事を働いただけでなく謝罪もしないのだ、と非難してまわったのです。ところがその成果と言えば、迎えた側の政府は礼儀は守りながらも実際は聞き流しただけ、マスコミに至っては、それこそスルーで終始したのです。・・・・・・・・・・・・私には、外交感覚の救いようのない欠如にしかみえませんが」

 あえて国名は書かないが、これらの国々にも心ある政治指導者がいないわけではないのです。日本だってそうだと思います。品格が大事というのは、全てに通じることで塩野さんの話には成るほど思いました。

塩野七生さんは私が今読んでいる「ローマ人の物語」(全15巻)の著者です。現在、11巻目ですが、読んでいて裨益すること大なるものがあります。(2016/5/25記)
 ★ 5/20朝日新聞を読む
「増税是非首相どう判断・・・分析会合終了経済認識割れる」の見出しが目に入った。この記事自体は読んでも、これまで散々議論されていることだから目新しさがないが、この下段の記事には驚いた。
「「10%」提言へ首相に近い議運」の見出しに「安倍晋三首相に近い自民党議員でつくる「アベノミックスを成功させる会」は19日、消費税を来年4月に予定通り引き上げる一方、影響を緩和するため、3年間で最大37兆円規模の財政出動を行う提言案をまとめた。近く首相に提出するという。これまで消費税増税反対を訴えてきた同会が方針転換したことで、首相官邸の意向を受けた動きではないかと憶測を呼んでいる。」とあり、財源は原則として国債でまかなうとある。ただただ驚きで言葉も出ない。

 私は経済学部の学生の頃、ゼミの指導教授山口正吾先生の論説が紹介されている「戦後日本のインフレーション」(都留重人著)を読んだ。都留先生によれば日本の近代経済史上、デフレ政策は3回行われたという。明治期の松方正義による日露戦争後の財政改革、昭和初期の井上準之助による金解禁に伴う緊縮財政、太平洋戦争後のドッジラインだ。いずれも大変な痛みを伴う政策で井上準之助は凶弾に倒れ、ドッジラインは朝鮮戦争の勃発で中途で終わった。デフレ政策が遂行されたのは明治期の松方正義による財政政策だけである。

 明治政府は日露戦争の戦費をまかなうため膨大な国債を発行したが、戦後、松方正義は大蔵大臣として財政改革(デフレ政策)を行った。
松方はこの改革案を持って京都にすんでいたかねからの知己の山本覚馬(元会津藩士、硝煙で盲目になり京都の薩摩藩邸にかくまわれていた。この人の妹八重が新島襄夫人)を訪ねて意見を徴した。
「この通りやれば改革は出来るが、おぬしの命はないぞ」と山本が言ったところ、「もとより国家に捧げた命、覚悟の上」と松方が答えたという。

 京都には何回か行っています。2回ほど若王子神社の横からイノシシ除けの柵を開けて山道を辿り新島襄、山本覚馬の墓所を訪ねたことがあります。2度目の時(2010/11/27)、墓所はずいぶん整備されていました。正面に新島襄の墓石(友人の同志社を出た畠山君から教えて貰ったのですが、この題字は勝海舟の筆になり、新島の島の字の横棒が欠けているそうです。私は気がつきませんでした。)、左手に山本覚馬の墓石があります。人影のない墓所で明治の先人達は大人物であったのだ思いました。(’16/5/22記)
 ★ 5月14日高校時代の友人畠山君に案内を頂いて、川口加奈さん(NPO法人HOMEDOOR代表)の講演を聴きました。彼はこの講演会を開催したグーローバル・ジャパン研究会の会員です。

 川口加奈さんが14歳の時釜が崎のホームレスの問題に遭遇し、大学生(大阪市立大学)のいままでどうこの問題に関わってきたかという話です。

 彼女の話で一番感銘を受けたのは彼女が単にホームレスの人たちの「食」を支援しただけではなく、さらに進んで彼らの「職」の問題に取り組んだことでした。

 レンタサイクルの事業を始めた経緯や軌道に乗せるまでの話を聴いていて感動しました。

 この問題は行政に任せておいて解決できる問題ではないと考えました。こういう彼女たちの行動にもっと多くの人たちが応援をしてあげなければと痛感しています。

 川口加奈さん始め、支援をしている若者達についてはNPO法人HOME DOORのHPをご覧下さい
 
 ★ 「中国大停滞」を書いた田中直毅氏(国際公共政策研究センター理事長)に聞く、というインタビューを読む(週刊東洋経済4/23号Books Trends欄)

中国の現状については次のように述べられている。
 積み重なる過剰生産能力、不良債権、金融リスクの解消プロセスについて共産党の指導層は明確な具体策は持ち合わせていない
 また投資主導型から消費主導型への経済転換、イノベーション、都市化による経済発展を軸とする習近平改革が、「新常態」への移行に結びつくことはないだろう
「結社の自由を認めず、市場の働きを理解しない指導者層の下では、発展の芽が押し潰されると言う基本的な限界がある

こうした現状に対して次の3点が指摘されている
1.中国の経済政策が何を目指しているのかよくわからない
2.諸外国からの呼び寄せ、つまり招集能力が著しくて低下している。具体的に言えば南シナ海が最大の問題で、中国の国際秩序を見下したやり方に対して寄り添うことは難しいと考える近隣諸国が増えている
3.ここまでやるのかという人権抑圧、大幅な表現の自由の制限は経済の安定性を損なう可能性がある

 この結果として、中国に直接投資を行う、あるいは本格的な営業の基盤を作るという際に人権抑圧がこんなに軽々しく行われているなら、いずれ問題が噴出する可能性があり、これでは長期的な投資は二の足を踏まざるを得ない

 こういう論拠から田中氏は、現在の中国の抱える問題は長期にわたる停滞への入り口に過ぎないと言う

習近平と清朝雍正帝との資質の類似性に話は及ぶ。この当否は別としても中国の歴史とか社会基盤にまで見据えた分析が大事だという主張には異論はない。

 今週号には中国動態「強権政治に不満のマグマ 習近平は裸の王様なのか」(小原凡司)のレポートが掲載されているので、併せてご一読ください。('16/4/17記
 ★ ジェラルド・L・カーティス教授のインタビュー記事を読んで
 日本には「勝ち馬に乗る」とか「時流に乗る」という言葉がある。全体的な状況が不明なときはこういう身の処し方が一番確実で無難であるのだ。「和を以て貴しとなす」というのが古来からの日本の精神基盤だ。大多数の日本人の意識の底流にはこういう思想が深く当然のごとく存在しているのが日本社会だ。長谷川如是閑はこういう日本人の生き方を健全なる日本の思想として高く評価していた。功利主義というか現実主義というか、とにかく日本人は実利の民なのだ。確かにこうして大勢に身を任せていれば波風も立たないし平和であると思う。

 最近の朝日新聞オピニオン欄にジェラルド・L・カーティス( Gerald L. Curtis)(
コロンビア大学政治学部バージェス記念講座教授)のインタビュー記事が載っていた。教授はこういう日本社会に対して、状況というか取り巻く環境が一定であれば妥当であろうが、大きく状況というか環境が変わるときは危険であると警告をする。満州事変以来の日本の政治対応をあげている。大勢順応では進むべき方向を間違えるということだ。今、日本が重大なターニングポイントにあることは間違いないようだ。とにかく自ら考えなければならないということだ。(2016/1/1記)
   
 ★ このところ週刊東洋経済は読み応えのある論文が多い。
 日本近代史に関する本を読んでいるので、政治学者御厨 貴先生と経済学者野口悠紀雄先生の対談は興味深かった。
 「湛山は本当にリフレ派だったのか」(Jiang Keshi岡山大学教授)の論文中湛山の政策転用ではなく思想の継承こそが必要として4つの論点が挙げられているが、これこそ経世済民の学問としての経済学ではないかと思った。
特集の「ピケテイ完全理解」も教授が来日中であるだけにとても良い記事だと思う。「21世紀の資本」を読んでみたいと思うが手が出ない。昨年から朝日のインタビュー記事や書評や週刊東洋経済の特集記事で概略を知るばかりだ。(’15/1/30記)        
★ 吉田満著「千巻大和の最期」覚書きを載せました。1941(昭16)年12月8日太平洋戦争が始まった。山歩きをしているとき12月には丹沢の大倉尾根で「戦艦大和の最期」を何回か聴いた。何波にもわたる敵機の空襲の凄惨な状況が文語体で記述されている。山道を歩きながら涙が止まらない。巻末の跋文の小林秀雄、林房雄の推薦の文には胸を打たれる。ご一読ください。  
 ★ 2014年11月28日午後銀行から戻って、ネットで朝日新聞にアクセスすると、「評論家の松本健一さん死去 近代日本の精神史を考察」の見出しだ。
 「日本近代思想の研究で知られる評論家で麗沢大教授の松本健一(まつもと・けんいち)さんが27日、死去した。68歳だった。
 群馬県出身。東大経済学部卒業後、会社勤めを経て、法政大大学院時代に書いた「若き北一輝」(1971年)で注目される。以後、右派左派のイデオロギーにとらわれず、近代日本の精神史を考察し、多数の著作を残した。
 33年かけて完成させた「評伝北一輝」(全5巻)ではファシストといったレッテルを排して、近代日本が生んだ特異な革命家の実像に迫り、司馬遼太郎賞、毎日出版文化賞を受けた。また「日本の失敗」では、第2次大戦を中国への侵略の延長ととらえ、日本が敗戦へと至った経緯を追った。冷戦終結後に勃興したナショナリズムについても論じた。
 民主党政権時には内閣官房参与も務めた。主な著作に「大川周明」「近代アジア精神史の試み」など。」
 松本健一氏の「日本の失敗」は読んでいる。1915年第一次大戦中に中国に突きつけた「対華21ケ条の要求」を日本の失敗の第1に挙げる。かの松岡洋右もベルサイユ講和条約全権団の一員(報道係主任)として同行したが、帰国後、主席代表の牧野伸顕泊に、手紙でこの「対華21条の要求」は「論弁すればするほど不利」とパリでの欧米各国の日本に対する厳しい態度を知らせている。私も日本近現代史を読めば読むほどこの「日本の失敗」を痛切に感じる。('14/11/28記)
★ 坂野潤治「日本近代史」を読む
 電子書籍は一冊読み終わると次に案内が来る。今回は坂野潤治「日本近代史」だ。中村隆英「昭和経済史」を読みたいのだがまだ電子化はされていないようだ。ダウンロードして読んだが、読み終わってから重い気分でいる。日本は大丈夫なのだろうかと漠然とした不安に襲われている。私のような年寄りが考えても仕方がない話なのだが・・・・・
 本書を読んで二、三のことを抜き書きしてみたい。
 あれほど幕末の日本の状勢を的確に見通していた西郷が何故間違えてしまったのか・・・・・、これに対して大久保は岩倉使節団に加わり、イギリスで「殖産興業」の重大さを知ったのだ。
 民主党の某政治家が尊敬する政治家として.「平民宰相原敬」を挙げたそうです。「平民宰相原敬」のことをどれだけ理解しているのであろうか、原敬は「大正デモクラシーに敵対した政治家」である(これは著者が記述している)、とにかく日本の近現代史をほとんど読んでいないということであろう
 「元老重臣中、高橋を(首相に)推薦する者は一人もなし」と二度西園寺が言ったそうです。元老間での高橋の不人気は、おそらく彼の「参謀本部廃止論」に原因していたというのです。原内閣の大蔵大臣時代に「内外国策私見」で参謀本部廃止論を唱え、印刷したが、原や田中義一(陸相)の忠告で配布を取りやめたそうです。
「1935年の日本の政治は、政界の不安定化とエリートの質の低下に直面していたのである。」
 1936年2月の総選挙を目標とする政民両党対立よりも早く、陸軍内部の統制派と皇道派の対立が頂点に達したのである。」、1935年7月15日の陸軍3長官会議が、相沢中佐による永田鉄山軍務局長惨殺事件、二・二六事件の引き金となったのである。このあたりは高宮太平「順逆の昭和史」(「軍国太平記」改題復刻版)に詳しい。
 元首としての天皇と大元帥陛下としての天皇を区別する解釈は美濃部達吉によってすでに採られていたこと(’14/11/5記未完)
★ 10/7,8と信州小諸に行ってきました。大学卒業50年となるので有志で集まろうという呼びかけがあり出かけたわけです。これまで何度か同期会がありました。そのおり、宿に泊まって、お湯につかって、浴衣を着て、酒を酌み交わし、膝を交えて話し合うのが同期会ではないかという意見がありました。ただこれは20人くらいまでの小規模な同期会ならばともかく、50人、60人となるととても出来ない相談です。写真の件も少しやっかいな問題があります。私は趣味ですから友人を撮って帰ってからパソコンで見るのが楽しみです。暇になると時々見ます。とてもいい表情があります。正面から声をかけて撮れば良かったとか、ストロバは上に向ければ陰がでなっかたのにと反省したり楽しみ様々です。問題というのはこの写真をどう配布するかなのです。名前と顔が一致しなかったり、3人4人と一緒に写っている写真は人数焼き増ししなければなりません。そんなことでネットに載せることを考えたのです。これであれば多少写真が暗くても補正が出来る、トリミングをして空白をカットするなどのごまかしがきくのです。これもパソコンのない人はどうするかと悩みはつきません。今回は人数も20人で、何人かはネットで見れるというので私のHPの裏サイトを案内しました。CDを作成して送りますので各自、カメラ店でプリントをお願いすることにしました。

★ 2010年の同期会の折、写真を撮ってHPに載せて同期の皆さんに案内をしました。このあと幹事の一人が出欠の葉書の短信欄をエクセルにまとめたものを入手したので近況報告として追加しました。「柳瀬和之 東京都大田区 出席します」程度なのです。このサイトが同窓会のHPにリンクされて数ヶ月後に下記のようなメールが届きました。こんな程度のことが、個人情報だ、個人情報だと言われてはと複雑な気分となりました。そんなことでこの近況報告を外して写真集だけを別のサイトに移動させました。私も後数年しかこういうことは出来なと思います。この裏サイトが見つからないように祈っています。案内をした同期の皆さん限りの利用だけにお願いします。(’14/10/11記)

 柳瀬 和之 様 本日始めて貴殿作成のHPを拝見しました。不特定多数の方々が見るHPに個人名の情報を掲載することは問題があると思いますので、即座に削除することをお願いします。又は、同期生だけが閲覧できるHPに変更して下さい。(T・K)
 ★ 「三四郎」を読み終えた。あっけない幕切れで終わった。読んで何が書評を書くとしたらなにを書くのかと何度も考えた。複雑で考えるのが、精一杯で何を書いたら良いのか正直なところ思いつかない。無理をして書くこともないのだろ。おのずと発酵する時を待つしかないのだろう。とにかくこの小説が「偉大なる暗闇」と考えると納得だ。恋愛を扱った小説だろうが、武者小路実篤の「友情」の分かり易さというか、率直さというか、比べものにならない。漱石先生は「こころ」といい、とにかく圧倒された気分でぼんやりしている。

★ 御嶽山が噴火した。私は2008/8/17から18に登っているので吃驚した。王滝頂上山荘から剣が峰までの稜線を歩いているとき左手からヒュー、ヒューと音が聞こえたことを思い出した。亡くなられた皆さんのご冥福をお祈りするばかりだ。(2014/10/1記)
★ 私はタブレットはAppleのiPadとSONYのxperiazと2台利用しています。最初に購入したのがiPadです。ライトハウス、大辞林等幾つかのソフトを購入し利用しています。iTunはとても優れたソフトであることは言うまでもありません。ただすべてのソフトを一元的に管理するだけに幾つかの制約があって面倒なのです。
 そんなことで次にxperiazを購入しました。職場の後輩がこの機器に精通していて彼の推薦によります。SDのスロットがあり、USBも接続できるので満足はしていますが、画面の操作などはiPadと比較すれば少し見劣りはします。
 iPadで利用しているライトハウスや大辞林がxperiazでは利用できないのです。そんなことでipadは自宅で専ら利用しています。電子書籍はkindleを使って居ますからどちらでも読めますし、同期しますからどちらで読んでも不都合はありません。
 願わくばSONYはxperaiaz等のソフト面をもっともっと磨いて欲しいと思います。
 ラジオ放送をmp3フアイル形式で録音する機器を利用しています。最初はサン電子製でしたが、電池のトラブルからだと思いますが残念ながらサン電子はこの分野から撤退して仕舞いました。現在はSONY製を利用しています。SONY製はサン電子製に比べて価格は1/3程度で安価なのですが、残念柄ソフトが中途半端で不満があります。

mp3プレイヤ-もiPodが出る前は東芝製を利用していましたが、ソフトに不満があって利用はiPodが多くなりました。価格も安くハードはとても優れていて、とりわけジョグスイッチなどの操作性の良さ、1ラインだけながら画面の視認性は良かったのに姿を決して仕舞いました。

mp3プレイヤーはこの他各社の製品を何種類も購入して使用しましたが、総じて日本のメイカーはハードには力を入れるがソフトが弱いということが言えるのではないと思います。(’14/9/11記)
★ このHPにリンクさせて頂いていた「わが町下丸子の紹介」のサイトがリンク切れになっていると職場の後輩から教えられた。調べて見ると間違いがない。お金も手間もかかるので閉鎖されたのだろうが、惜しい気がする。NOZAKIさん、長い間ご苦労様でした。(’14/8/28記)
 ★Thomas Piketty著 Capital in the Twenty-First Century

 朝日新聞に「21世紀の資本論」の著者であるフランスの経済学者トマ・ピケテイ教授のインタビューが載っていた。

「現代のマルクス。ロックスターのようなエコノミスト。そんなふうに突然もてはやされるようになった経済学者がいる。パリ経済学校のトマ・ピケテイ教授。マルクスの「資本論」の向こうを張ったような名前の新著がこの春英訳されるや、米国を中心にベストセラーに。経済的不平等の拡大を悲観的に描いた彼は、どこに希望を見いだすのか。

 米欧での300年にわたる租税資料を分析し、1914~70年代を例外として、資本の集中と経済的不平等が常に進んでいることを示した。マルクスが19世紀に予言したような資本家と労働者の激しい階級対立が起きず、資本主義のもとで不平等が縮小するかに見えたのは、二つの.世界大戦と世界恐慌がもたらした偶然に過ぎないと指摘。貧富の差が激しかった19~20世紀初頭に戻る可能性にすら言及している。600ページを越える大部だが、数式を抑えた記述、バルザックなど文学作品の引用などもあいまって人気だ。ノーベル賞経済学者のクル-グマン氏は書評で絶賛し、「ピケテイは我々の経済的論議を一変させた」と述べた。

「ここ数十年の間で、二つの非常に大きな変化が起きています。
 一つは米国でとくに目立つことですが、上級の企業幹部の収入が急上昇しています。米国では今、全所得の約50%が上位10%の人たちに渡っています。
 もう一つの方がさらに重要ですが、生産設備や金融資産、不動産といった資産の蓄積が進んでいます。こうした資産が、その国の1年の経済活動を示す国内総生産(GDP)の何倍あるかを見て下さい。1970年時点では欧州では2~3倍でした。それが今は5~6倍になっており、国によっては6~7倍になっています。」(抜粋)

 これらの問題を市場は解決できないとして、ピケテイ教授は資産に対する1%から10%の課税、所得に対する累進課税を提案します。しかし、この政策提案に関しては日経新聞電子版で読んだ英エコノミスト誌の書評はなかなか手厳しいものがあります。一国だけでも難しいのに国際的な強調などは不可能ということでしょう。それでもここに経済学者への根源的な問いかけ(「冷静な頭脳と温かい心」でこういう難問にどう立ち向かうのかという)があるようにおもわれます。

 事務所で暇なのでこの記事を書き写しながらわくわくした気分で読んでいる。ネットで関連した記事を読んでいると「左派を狂喜させ、右派を激怒させる」とあるとおり、反響の大きさに驚く。私はまだ血の気が多いのか、漱石や鴎外よりこういう記事を読むと血が沸き肉が躍る。翻訳はまだのようだが、翻訳が出ればKINDLEで大きなフオントで読めればとつくづく思う。(’14/6/18記)(’14/6/28加筆)
 ★ 漱石の「こころ」を読み終えた。朝日新聞に連載が始まったのを期にKINDLEにダウンロードして大きなフオントで読んだ。改めて漱石はすごい作家だと思った。真に文豪というにふさわしいと思った。鴎外とも違う。露伴とも違う。

 少し前に老化防止に効果があるとかで大きな活字本で鴎外の「最後の一句」「高瀬舟」を声を出して読んだ。このことが契機でKINDLEに「興津弥五右衛門の遺書」、「阿部一族」、「大塩平八郎」をダウンロードして読んだ。また、NHKの朗読に触発されて露伴の「芦声」、「太郎坊」をKINDLEにダウンロードして読んだ。

 漱石は肩肘の張らない普段の言葉で深い内容を書くのだ。人間の心の深部を書くのだ。読み終わって暇なので何かを書こうと思ったが圧倒された気分でこんな程度のことしか書けない。'14/6/7)
 ★ 太宰は「富嶽百景」で「富士には月見草がよく似合う」と書いている。この伝で言えば「銭湯には富士がよく似合う」と言えそうだ。
 私が毎日利用している下丸子の銭湯「都湯」が今月12,13日とお休みであった。2日も休みとは不審に思ったが、14日に行くと富士山の描かれていた壁面が上部と下部に仕切られ下部は真っ白なパネルで埋めれている。吃驚して帰り際、番台の奥さんに尋ねたところ19日の休みに絵師の中島さんが来ますとのことであった。壁面を上部と下部に分けたのは足場の関係とのことあった。この間銭湯に行っても白い壁面をみると味気なく落ち着かない気分でいた。そんなことで20日銭湯に行くのが楽しみであった。
 洗い場に入って壁面を見る。富士山だ。ペンキの独特の臭いが鼻をつく。富士山は男湯の中央より少し左手だ。前よりは富士山が小さく、下の位置に描かれている。壁面が新しいせいか色彩が以前より鮮やかだ。左手の女湯はどうか。中央の仕切り越となると湯気でよく見えない。少し高いところから見れば見えるかも知れないが、これは遠慮をした。

 銭湯の壁画を描く絵師は、今は中島さんお一人のようだ。この都湯も以前は早川さんが描いておられた。富士山が男湯と女湯の中央に大きく描かれていた。早川さんが亡くなられてからは中島さんに代わられた。私の個人的な感想では中島さんの富士山は写実的で少し小さく描かれているように思う。ただこの方は、以前、志摩半島の絵を描いておられた。この絵には左隅にボンネット型のバスが描かれていたが、これが極端なデホルメを嫌うこの絵師の真骨頂かも知れない。ただ「銭湯には富士がよく似合う」のだろう、客の趣向は圧倒的に富士山のようだ。(’14/5/21記)
四月はなんだかんだと気ぜわしかった。それでも25日午後早退をして青森に向かい、26,27日と弘前城の櫻を撮りまくった。弘前と言えば昭和29年か、30年中学の修学旅行で訪れている。青函連絡船で外国人を見かけ取り囲んでサインをして貰ったこと、バスの車窓から田んぼで牛が耕しているのを見て驚いたこと(北海道では牛と言えば白と黒のホルスタインの乳牛しか思い浮かばなかったのだ)、奥入瀬の渓谷で、バスのガイドが「明治の文豪大町桂月」の詠んだ歌を紹介したこと等々を思い出した。「明治の文豪大町桂月」が永く気に掛かっていたが、山歩きをするようになってこの疑問が氷解した。彼は少年雑誌の編集者で紀行作家であったのだ。かって南アルプスを縦走した折、農鳥岳山頂で明治の文豪大町桂月の黒の御影石の歌碑を見たが、こういうところまで足を伸ばしていたのだと感心した。(14/5/2記)
★ 3月の繁忙期も終わった。早速、山に行きたいところだが思うに任せない。連休は風邪を引いて寝ていたし、29日は息子夫婦の車に乗せてもらって家内と富士霊園に行ってきた。消費税も5%から8%に変わるので事務所の請求システムを手直しをした。4月に入って請求書を発行するのだが、役務の提供が3月中に終わっているものは5%で請求しなければならない。dBASEで作成しているプログラムの一部を手直しをしたが、4月に入って動かしてみなければわからないバグもあるかもしれない。とにかく気の抜けない4月が始まる。母校の野球も今年はピッチャーが評判で4/2は平日だがなんとしても球場に行き写真を撮りたい。(’14/3/30記)
 暇になるとHPの手直しをしています。「閑話休題」という標題を以前使っていましたが、そういう言葉があるのだろうかというご指摘を頂いて「閑話」とだけにしました。少し前に勝海舟の「氷川清話」をKINDLEで読んでいましたら、「閑話休題」という言葉があり、復活することにしました。
 それにしてもよくこんな沢山の雑文を書いたものだと我ながら驚いています。時折、読み返してはあんな事もあった、こんな事もあったと、老人特有の思い出に浸っています。(’14/3/27記) 


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