「昭和の怪物 七つの謎」(保坂正康 講談社現代新書)を読む
 ☆東条英機の人物論については「昭和の将帥」(高宮太平)が詳しい。

☆石原莞爾についての様々な人物評を雑多な署を読んで知った。ベルリンの街中を羽織袴で高吟放歌したとか、家一軒分にもあたる高価なライカを持っていたとか、赤坂にあったカメラの町工場のカンノン製作所に資金援助をしていたとか、日蓮宗の熱心な信者だったとか、世界最終決戦を唱えたとか、とにかく奇矯な振る舞いが多い人物だ。極めつけは満洲事変を引き起こした首謀者だということだ。

 日露戦争に勝ってロシアから鉄道の権益の割譲をうけて満洲に進出するのだが、南満洲鉄道株式会社(満鉄)の創立委員長が児玉源太郎で、この時、伊藤博文と山県有朋が児玉源太郎に「満洲はれっきとした清国の属地だぞ、止めとけ」と言ったそうだ。維新の元勲達にはこういう正常な見識があったのだ。

 残念ながら1915年(大4)に大隈内閣は中国に対支21ケ条の要求を突きつけた。この要求には公表されていない条項もあって中国全土に一挙に抗日の機運が盛り上がった。「日本の失敗」(松本健一)に詳しい。

 1929年世界恐慌が起きるのですが、日本経済の構造改革に正面から取り込むことなく、新聞も国民も思慮なく1931年(昭6)満洲事変、満洲国建国へと熱狂的な支持を与えてしまったのです。国内の政治、経済のあらゆる矛盾に目をつぶって安易な亡国の道に踏み込んでしまったのです。満洲事変勃発時の前後の陸軍上層部の状況は「昭和の将帥」(高宮太平)をお読み下さい。とにかく参謀本部作戦課長であった今村均大佐は幾つかの観点から中央と出先が完全な意見の一致をさせて置かなければ国運を左右する大事を決行することはできない。そこで現在の情勢において事件を極小範囲にとめておくには中央の威令を関東軍に徹底させ、爾後の軍事行動は慎重を期す必要があると意見具申をした。その後の事変の推移は表面的には石原参謀の対ソ判断や軍事行動が高く評価され、今村の意見は杞憂に思われたが、この後の国際連盟の脱退等日本の命運を決めたのです。「作戦課長の一大佐の献言はむなしく葬り去られた・・・満洲事変は陸軍が下剋上の風潮に侵食され、厳正成るべき軍紀が退廃していたことを指摘せざるを得ない」と、その時の意見は高く評価されています。こういう人が陸軍のリーダーになっておられたらと思わざるを得ないのです。

 支那事変(日中戦争)は拡大の一途をたどることになりました。1937年(昭12)盧溝橋事件後、事変不拡大を主張する参謀本部石原作戦部長に武藤作戦課長が「閣下が満洲で行ったことを我々は支那本土で行うのであります」と言い返される始末でした。満洲事変を起こした時点でこの途は決まったのです。日満支の協調だ、協和だ、東亜連盟だと言ったところでどうなる話ではなかったのです。世界最終決戦論を唱えた石原の思想の浅さが露呈したのです。

 日本の一番の不幸は政治が全く機能しなかったことです。事変が拡大してゆくとき政府(第一次近衛内閣)には戦線の状況がわかりません。閣議でも杉山陸相は一切説明しません。そこで米内海相が「陸軍は保定まで軍を進めてから交渉に入る意図ならん」と説明したところ、杉山陸相が「かかる重大なことをこんな席で話してもらっては困る」と言って制止したということを知ったときは驚きました。明治憲法の統帥権が顔をのぞかせるのです。日露戦争時には元老たちは高い立場で意見を交わしました。「日露戦争」(児島 襄」に詳しい。

☆ 犬養 毅については辛亥革命を起こし清朝を倒し中華民国を立ち上げた孫文が、かって日本に亡命した時、これに助力した政治家としか知らない。
原敬が政友会総裁のころ満洲から10数億円調達して政友会の政治資金としていたことを電子出版の昭和史の何かの書で読んで知った。
5.15事件の時、青年将校たちから爆殺された張作霖の倉庫から出てきたとう領収書を見せられ、これは何だという問いに「話せばわかる」と答え、青年将校たちから「問答無用」と撃たれたという。このことは西園寺公の秘書であった原田熊雄の日記で市中の噂として紹介されていて著者(保坂)は軍部の流した謀略ではないかと書いておられる。

 40年前の日中国交回復交渉の折、大平外相が語ったという記事が記憶に残っている。大平外相が大蔵省に勤めていた時、アヘンの売却で満洲に出張した当時の話として、当時は気に留めたことはなかったが、今考える申し訳ないという話をしたことを知った。
 私はそんなことで全く根拠のない話だとは思われないのだ。犬養毅の個人的な人格は別として犬養政友会総裁、鳩山幹事長が倒閣運動とし1930年(昭5)ロンドン軍縮条約締結時に加藤海軍軍令部総長、末次次長らとともに統帥権干犯を理由としての政治活動は政治家の見識を問われるのでないか。1921年(大10)ワシントン軍縮条約締結時に加藤友三郎全権代表(日露戦争時の連合艦隊参謀長)が、随員の堀梯吉中佐(ロンドン軍縮条約時海軍省軍務局長)に「要は金がなければ戦はできない」という私信を持たせ一足先に帰国させたという。わずか9年間の間に歴史は悪いほうに悪いほうに流れてしまったのだ。

☆ 真崎甚三郎については人物評としては「昭和の将帥」(高宮太平)が詳しい。この人物の政治的な行動については昭和史、特に二・二六事件をあつかった書で必ず登場する。

☆ 今村均については「昭和の将帥」に詳しいし、また今村自身が戦後「一軍人の哀歓60年」という大部の回顧録を書いておられて深い感銘をを受けた

☆ 渡辺錠太郎については高宮太平の著書「順逆の昭和史」「昭和の将帥」で知るだけですが、こういう方が陸軍のリ−ダ−になっておられたならばと高い評価を受けておられる。この書でいくつかの貴重なことを知ったが、夫人が渡辺和子さんに話したという言葉が印象的だ。

☆ それにしてもこの書の題名はいただけないと思った。「怪物」とは何を指すのか、「七つの謎」とはなにをいうのか・・・・

☆ 「五色の糸の乱れしはみな美なるも、余は一つに決して・・・」(杉田玄白)
 私は杉田玄白の言とは逆になんにでも興味を持って手を出した。大成はかなわなかったがこの歳までなんとか生きてこれた。学生のころから雑多な本を読んできた。言い訳になるが、当然、その時々の問題と結びつけて考える手掛かりにもしてきた。ただ思いばかりが先行して自分の言葉でこの思いがうまく表現できないのだ。こうして一文を書くことでこの足らざることが痛切にわかる。恥をかいても書かなければ前に進めないのです。

 私がこんなことをPCに向かって書いていると、家内が、「お父さん そんなことを書いていったい誰が読むのか」と鋭い言葉を投げかけてきました。私は「誰も読む人はいないよ」と苦笑して答えました。読んでいただく方がいると感謝感激です。(2018/10/1) 
戻る