私の読書備忘録3
 私は高校2年17歳の時、父を亡くした。葬儀の折、焼き場で父の骨を拾ったが止めどなく涙が出た。その後、粗末な教員住宅に戻って聴いた「白骨の文」は私に深い印象を残した。当時、「白骨の文」といってもそのなんたるかも知らなかったし、もとより仏教(真宗)に関心などあろうはずがなかった。ただ「白骨の文」のいくつかの章句が私の脳裏に深く刻まれた。

 大学に入ってマックス・ウエーバーに関する著作を読んでプロテスタントの何たるかに触れたとき心が高揚したことを思い出す。ウエーバー「 我が人生は重かったが、良く戦った」というウエーバーの言葉を机の前の壁に貼って、一時かく成らんと気負っていた。オランダのカルビン派の孤児院が孤児に赤と白の縞模様の囚人服と見間違うような服を着せて街を歩かせたというエピソードなど、「艱難、汝を玉にする」という日本人の精神の心底にある倫理感と共通するものがあって清新な驚きがあった。新島 譲始め内村鑑三、新渡戸部稲造達が基督教に入信したのも直ぐ理解できた。内村鑑三が上海から入ってきた白文のマタイ福音書を高崎藩の祐筆であった父親に渡したところ一読してその宗旨のなんたるかを理解した書いておられる。武士階級出身の知識人には格別の精神上の障壁はなかったと思われる。ただ私にはどうしても踏み切れないものがあった。祖父は富山出身の熱心なる門徒であったし、自分でもよくわからないが、焼き場で父の骨を拾い上げた時の思いが何かしら影響しているのではないかと思う。
丹羽文雄「親鸞」「蓮如」 私の真宗に関する知識の大半はこの二書で得られました
五木寛之「蓮如」「親鸞」 「親鸞」は本も読んだがNHK加賀美幸子アナウンサーの朗読もいい。
倉田百三「出家とその弟子」  昔、岩波文庫で読んだ。つい最近、kindleで大きなフオントで読んだ。
歎異抄(岩波文庫版)
歎異抄(講談社文庫)
暁烏 敏「歎異抄講話」
歎異抄事典
本多顕彰「歎異抄入門」
松原泰道「わたしの歎異抄入門」
歎異抄も解説付きでいろいろ読んだ。原典も岩波文庫も★一つだからたいした分量ではない。しかしCD版の朗読が一番だ。これをIpodにいれて何回も何回も山道で聴いた。

「親鸞は、「浄土真宗の本尊は尽十方無礙光如来なり。」と言い、「その本尊居するところの土は、光明土なり。」と言っている。尽十方無礙光如来というのは、その光明が十方にあまねくゆきわたり、さえぎるもののない光明の如来、という意味であり、「如来」というのは、真如そのものにほかならない。そしてその「真如」は、われわれの言うところの真理である。つまり親鸞の宗教の本尊は、光明によってあらわれる真理なのである。そしてその本尊の居る国土は、光明土だというのだ。」(本多顕彰)

悪人正機説では山折哲雄は深い内省が前提といい、五木寛之は前提なしで認めている。
松野純孝
「親鸞の開眼」
表紙の親鸞像に惹かれて神田の古本屋で買った。偶然手にしたのだが著者の熱い親鸞に対する思いに惹かれて何度も読んでいる。
シトク・A・ペール
「浄土真宗とキリスト教」
著者はベルギー人の真宗僧侶の方だ。真宗とキリスト教(プロテスタント)の類似点がよく言われているようだが根本的にはかなり違うのだ。教学的な側面から真宗を知ろうと思ったわけではない。
 八宗綱要(講談社学術文庫)  「南都北嶺にもゆゆしき学匠おわします」というので拾い読み程度だ。
 蓮如文集{岩波文庫)
田代俊孝「御文に学ぶ」
 私は蓮如上人の御文を拾い読みをしている。蓮如上人がご自分でも語っておられるごとく真宗の教えの全てがあるようだ。
 森龍吉「本願寺」  本願寺の歴史を知るには格好の書だ。
親鸞「和讃集」
親鸞「教行信証」
 とても手が出ない。岩波文庫の大きな活字版で書架に入れて飾ってある
 高根正昭「創造の方法学」  加賀藩での事例から真宗の勤労観という日本人の精神的基盤からの視点でのマックス・ウエーバー流の研究に触れている


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