私の読書備忘録1
中学生になった12歳から72歳の今日までの60年間に本はずいぶん読んだ。雑多な分野の本を手当たり次第読んだ。今も狭い家の中に処分もせず未整理のままに平積みにして積んである。歳も歳だし、処分しなければならないと思いつつ決心がつかない。暇つぶしに心に残った本の寸評を書いてみようと考えた。ただその本を探すのが容易ではない。とにかく書き出さなければ始まらないと思った。書き上げても気がつけばどんどん加筆訂正をします。
高宮太平
「順逆の昭和史」
(軍国太平記の改題復刻版)
高橋正衛
「二・二六事件」
「昭和の軍閥」
 
著者は戦前、朝日新聞の高名な陸軍記者だ。
二・二六事件までの陸軍の二大派閥と言われる統制派 と皇道派の抗争の内幕を書いたこの書は第一級の資料とのことだ。昭和史の通史(「昭和の歴史」、「重臣達の昭和史」等々)もずいぶん読んだがこの書はとにかく面白かった。

 高宮太平
」昭和の将帥」
回想の軍人宰相たち
 この書で取り上げられのは今村 均、東条英機、小磯国昭、杉山 元、荒木貞夫、林銑十郎、阿部信行、広田弘毅の8名だ。

今村 均大将は昭和を代表する名将の一人とのことです。満州事変のときは大佐で参謀本部作戦課長であった。「作戦課長の一大佐の献言はむなしく葬り去られた・・・厳正成るべき軍紀が退廃していたことを指摘せざるを得ない」、その時の意見は高く評価されている。こういう人が陸軍のリーダーになっておられたらと思わざるを得ない。もう一人、高い評価を受けている軍人がいる
「順逆の昭和史」の中であったと思うが渡辺錠太郞大将に言及されて、もしこの方が陸軍のリーダーとなっていたらどうであったろうかとまで書いておられる。

東条英機の章では「市井の正直な小心者が、何かのはずみで逆上すればとんでもないことをする。」と、なかなか手厳しい。「しかし、彼の東京裁判に於ける態度は立派だった」と記されている。

小磯国昭の章で鈴木貞一の名前が出てくる。ずいぶん前のことだが朝日新聞に佐藤日記の数カ所が紹介されていたが、ここに鈴木貞一の名前wが出ていて驚いた。

杉山 元の章では「極言すれば彼は大臣、参謀総長などの要職に座る資格のない人物であった。平和な時代ならかれでもりっぱに勤まるが、国運を賭けた戦争をはじめるかどうか、はじまった戦争をいかに収拾するか、そういうことに最も不適任な人物であった。軍務局長、次官ならその頭脳、手腕は他に比類ないものであり、対人関係においても申し分のない人徳を備えていた。しかし、最高の地位に就くには、どこか一本骨が欠けている感じだ」

荒木貞夫の章では「寺内にかぎらず、この前後の陸相は幕僚の意のままに動いた。幕僚フアッショである。新形式の軍閥の出現である。長閥、薩閥、近年では宇垣閥などが出現し、最後に皇道派閥ができたが、これらはどこか目標となる人物が存在していた。ところが新軍閥は正体がわからない。幕僚は1年か2年で交代する。だから中心がない。中心がないように見えて政治壟断の意図はりっぱに継続している。武藤でも石原でも、中央から出たり入ったりしている。それでいてフアッショ幕僚の勢いは少しも衰えない。」と陸軍官僚制の問題点を鋭く指摘する。
最近、東洋経済の書評欄で北岡伸一「官僚制としての日本陸軍」の書評を読んだ。

林銑十郎の章では「林は軍人としても、政治家としても完全な落第生であった。もっと極言すれば人間としても許しかねる人物であった。逆境にあれば先輩知友に哀れみを乞い、志を得れば尊大、他を蔑視し、ついに終生の知己を得ることができなかった。」と非常に厳し人物評が書かれている。

阿部信行の章では「小磯の後を承けて朝鮮総督になったのであるが、終戦になって引きあげるときは、相当な非難を受けた。・・・・林と似た臭みはあったが、林よりは利巧であった。あるいは狡猾であったということもできよう。・・・・野戦の将軍でなく、処世の将軍たるには恥じないものがあった。」とこれまた厳しい人物評だ。

東京裁判で文官でただ一人絞首刑になった広田弘毅の章では著者が新聞社に戻り緒方竹虎社長に広田さんが、軍人も馬鹿ではないのだから一度やりたいようにやらせたら良いと言っていますと伝えたところ、緒方社長が「だから役人上がりは困るんだといって心配していたという箇所が印象に残っている。陸海大臣の現役武官制を復活させたことも大きな失敗であったと書かれている。城山三郎の小説「落日燃ゆ」も読んだがやはり小説家の視点には限界がありそうだ。
 今村 均
私記・一軍人60年の哀感
(今村大将回顧録)
井上 清
「宇垣一成」
 この回顧録を読んで深い感銘を受けたが、永く記憶に残っている一節がある。太平洋戦争の開戦時今村均大将は中将で南方派遣軍第16軍軍司令官であった。そのジャワの軍司令部での話だ。当時、蘭領インドネシアの油田地帯パレンバンに空挺部隊が進攻し、空の神兵などと華々しい戦果を上げていたとき、白皙の青年が宇垣大将の使いとして東京から訪ねて来た話だ。宇垣は昭和12年広田内閣総辞職の後、組閣の大命が降下するが、陸軍部内の賛成を得られず大命を拝辞し林銑十郎内閣が成立した。
 五味川純平
「ノモンハン」
辻政信
「ノモンハン」
林 三郎
「関東軍と極東ソ連軍」
  昭和14年5月に勃発したノモンハン事件は五味川純平「ノモンハン」によれば「紛う方なき小型の太平洋戦争であった」と書かれている。第23師団(小松原師団)の死傷率は75%でほぼ全滅です。陸軍はこの後、山下奉文少将を団長とする調査団をドイツに派遣し、兵器の近代化を図った。しかし旧態依然たるまま太平洋戦争に突入してしまった。この作戦を指導したのが関東軍参謀の服部卓四郎、辻政信で二人は後ガダルカナルでも同じ作戦上の失敗を繰り返したという。話は変わるが、私の祖父は樺太、満州で鉄道の枕木を切り出す仕事していた。祖父はこの事件を満州での仕事を通して知ったのだとおもうが、奉天で「軍部は戦争だ。戦争だ。と言っているが戦争などしたらひとたまりもないぞ」といって私の父に北海道に引き揚げることを勧めたそうだ。父は激怒し、「八紘一宇の聖戦をなんと心得るか。非国民だ。親といえども許せない。」と祖父に言ったそうだ。祖父は憲兵隊に連行されたそうで、戦争が始まる前に全ての事業を整理して北海道旭川に引き揚げたのです。私が中学生の時、父が二日酔いで寝ているとき祖父は俺は無学で尋常小学校の卒業時に先生が富山の師範学校に入れたらどうかと言ってくれたがかなわなくて、そんなことで父を中学から東京に送り出し大学まで出したのに何の役にも立たなかったと嘆じていました。
 林三郎「関東軍と極東ソ連軍」にはソ連側からみた関東軍の作戦評価(ジューコフ元帥の下士官は勇猛果敢だが指揮官は無能」)には言う言葉もない。 
児島 襄
「天皇」
「満州帝国」
中村菊男
「満州事変」 
昭和史の中でも大きな出来事は満州事変、満州国建国だと思う。私は昭和16年に満州国奉天省奉天市大和区八幡町13号で生まれているので関心がある。青江舜二郎「石原莞爾」等ずいぶん読んだが、経済史の観点からこの歴史的な潮流を理解しなければならないと思う。。 
松本健一
「日本の失敗」 
「対華21箇条要求」に対する石橋湛山の批判

ロンドン軍縮条約締結時における政友会の鳩山一郎幹事長の政治働きかけ(海軍軍令部への統帥権問題など)はこの書で知った。 
高木俊朗
「インパール」 「抗命」「戦死」「全滅」「憤死」
このインパール五部作を読んだとき体が熱くなった。第15軍軍司令官牟田口廉也中将は盧溝橋事件の連隊長で半藤一利「昭和史」にも登場する。 「今次の大戦は自分が起こした」として乾坤一擲、インパール作戦を強行した人物だ。昭和41年朝日新聞の訃報欄で牟田口廉也元中将の死亡記事を見たときは生きていたのだと吃驚した。
児島 襄
「東京裁判」
「御前会議」
五味川純平
「御前会議」
太平洋戦争の歴史を読んでいて不思議に思うことはいったい誰が主導したのかが不明であることである。東京裁判で共同謀議という点で責任が追求されるが、そもそも共同謀議なるものがあったのであろうか。時の勢いで歴史が動き出し戦争を始めてしまったというのが本当のところではないのかとおもう。大元帥陛下が始められた戦争を天皇陛下が終わらせるという何とも不思議な論理で戦争を終結させた。

「日本人は建前では「強いリーダーが必要」言うが、実は強いリーダーを好まない。みんなで仲良く決めるスタイルを好む。・・・鎌倉幕府でも江戸幕府でも、最初はトップが意思決定を行ったが、権力が安定してくると、すぐトップ以外の実質権力者を別に置くようになる。日本人はトップが実権を持つことを好まない。」(週刊東洋経済2013/8/10-17野中尚人学習院大学教授)
NHKカルチャーラジオ
池井 優慶大学名誉教授
「近代日本の外交の歩み」
日露戦争に勝ってロシアから鉄道の権益の割譲をうけて満州に進出するのだが、南満州鉄道株式会社(満鉄)の創立委員長が児玉源太郎で、この時、伊藤博文と山県有朋が児玉源太郎に「満州はれっきとした清国の属地だぞ、止めとけ」と言ったそうだ。山道でNHKラジオ講演(全13回)を聴いて知った。
加藤陽子
「それでも日本人は戦争を選んだ」
「高校生に語る日本近現代史の最前線」


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